【人気No1】教科書には載らない教会歴史 – 神が回復し続けているもの –

【人気No1】教科書には載らない教会歴史 – 神が回復し続けているもの –

「キリストの教会歴史を知りたい」と思ったあなたへ。

キリスト教会の歴史を学ぶとき、多くの人は「ローマ・カトリックの成立」「宗教改革」「近代のプロテスタント教会の発展」といった出来事を思い浮かべるでしょう。しかし、それらの出来事の背後には、もっと深い霊的な視点 があります。この深い霊的な視点こそ、「教科書には載らない教会歴史」です。「教科書には載らない教会歴史」、すなわち、真の教会の歴史とは、単なる組織や宗派の変遷ではなく、神がご自身の働きを回復し続けている歴史なのです。この神による回復の働きをわたしたちは、そのまま「主の回復」「神の回復」と読んでいます。

Ⅰ. なぜ「回復」が必要なのか?

Image source: Envato Elements

「回復」という言葉は、失われたものを取り戻し、元の正常な状態に戻すことを意味します。では、キリストの教会において、何が失われたのでしょうか?それは、神が本来望まれた教会の姿 です。

初代教会は、ペンテコステの日に聖霊によって生み出され、キリストのからだとして機能していました。しかし、歴史が進むにつれて、異なる教えや人間的な要素が教会の中に入り込み、教会は徐々に神の本来の意図から逸れていきました。権力、伝統、組織化……。こうして教会は、外面的には繁栄しているように見えても、神の御心からは遠ざかってしまった のです。この神が本来望まれた教会の姿から逸脱することを「堕落」と言います。ですから、2000年の教会の歴史とは「教会の堕落の歴史」と言うことができます。

Ⅱ. 神の回復の働き

Image source: Envato Elements

しかし、神は教会をこのままにはされませんでした。2000年に及ぶ教会歴史を学ぶなら、その歴史は「堕落の歴史」であるだけなく、「回復の歴史」でもあることを見ることができます。ある時代には個人を、ある時代にはグループを用いて、少しずつ失われたものを回復 してこられました。

16世紀にはマルチン・ルターを用いて、「信仰による義認」を回復しました。17〜18世紀においては、ヨーロッパで主を愛する聖徒たちによって、「内なる命の経験」「個人的な霊的生活」が回復されました。19世紀にはブラザレンの聖徒たちにより、宗派や組織を離れ、キリストにある信者が一つに集まること、また、正常な教会生活の開始を持ちました。20世紀では、中国において、「キリストのからだとしての教会生活の実行」を回復しました。これらは、神の回復の働きです。

  • 16世紀の宗教改革 ― 聖書の権威と「信仰による義認」を回復
  • 17〜18世紀の敬虔主義・メソジスト運動 ― 「内なる命の経験」「個人的な霊的生活」の回復
  • 19世紀のブラザレン運動 ― 「教会の一と聖書の真理」の回復
  • 20世紀以降の主の回復 ― 「キリストのからだとしての正常な教会生活」の回復

こうして、神は時代ごとに、御心にかなう真理と実行を回復されてきました。

Ⅲ. 今の教会はどうなのか?

Image source: Envato Elements

この歴史を振り返ると、ある問いが生まれます。

もし神が歴史を通して回復の働きを進めてこられたのなら、今の私たちはどこにいるのか?

あなたが今所属している教会は、神が回復されてきた真理のどこに立っているでしょうか? かつての堕落した教会のように、知らぬ間に人間的な伝統や組織の影響を受け、神の御心から逸れてはいないでしょうか?

それ以上に、あなたは本当に神の御心にしたがって歩んでいるのでしょうか?

教会の歴史は、単なる過去の話ではありません。それは今も続いている神の働きであり、わたしたちはその歴史の中に生きているのです。これが 「教科書に載らない教会歴史」 です。

Ⅳ. どうすればいいのか?

Image source: Envato Elements

もし、あなたが自分を義とせず、「私は本当に神の御心にしたがって歩んでいるのだろうか?」と問いかけるなら、あなたは神が今まさに行われている働きを知る必要があります。そして、その働き――すなわち主の回復の働き を知るためには、「まず、真の教会の歴史を知る」 必要があります。

多くのクリスチャンは、キリスト教の歴史を「宗派の発展の流れ」としてしか見ていません。しかし、本当の教会の歴史とは、神が堕落した教会をどのように回復してこられたのか という視点から見るべきものです。そして重要なのは、神は過去だけでなく、今もその回復の働きを続けておられる ということです。

Ⅴ. 次の記事へ――主の回復の歴史をたどる

Image source: Envato Elements

では、「神はどのように教会を回復してこられたのか?」そして、「神が今しておられる働きとは何なのか?」

次の記事では、この視点から教会の歴史を詳しく見ていきます。あなたが今どこにいるのか、そして神がどこへ導いておられるのかを知るために、共に神の回復の歴史をたどっていきましょう。

この「教科書には載らない教会歴史」は全10の記事で構成されています。教会が誕生した2000年前に遡り、時代を経てどのように神が回復の働きをおこなわれてきたのかを見ていきます。是非、PART 1から順番にご覧ください。

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

次の記事へ

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

英国ブラザレンが起こされてから100年後、1920年に、主は異邦の地である中国に行かざる得なくなりました。なぜなら、彼にはヨーロッパとアメリカにおける混乱した状況において主には回復の働きをする道がなかったからです。この回復は、キリストのからだの回復です。これが今日、主が求めてられるものであり、回復されている働きです。

Ⅰ. 主は福音の処女地である中国において新しい事を開始する

十八世紀に、モラビア兄弟団がヨーロッパ大陸にありました。十九世紀に、英国においてブラザレンが主によって用いられました。一世紀後、主は極東の中国において新しい事を開始されました。中国での主の回復の働きおいて、主はウォッチマン・ニーを召されました。この主の働きは1922年から中国の福州において開始されました。ウォッチマン・ニーはこのように言いました。「主がわたしたちを起こされた時までに、正しい教会生活に関する限り、西洋世界はダメにされました。ヨーロッパとアメリカの両方において、カトリック、国教会、私立教会は多くの混乱を引き起こしました。ブラザレンが現れた後、彼らはキリストのただ一つからだがあること、またただ一つの教会があることを、分裂があるべきでないことを宣言しましたが、最終的に他のどのグループよりも分裂しました。ですから、ヨーロッパとアメリカには、混乱したキリスト教があるだけです。主は処女地である中国に来ざる得ませんでした。今、主が中国に来て、新しい事を開始したということです」。中国は異邦の地であり、多くの信者はいませんでしたが、教会に関して複雑ではありませんでした。このゆえに、主は中国において彼の回復を開始することができたのです。こうして、中国において主の回復が始まりました。

ウォッチマン・ニー兄弟はほとんどあらゆる宗派から、あらゆる種類のキリスト教の実行から、教会歴史を通じてすべての追い求める聖徒から、良い、助けとなる事柄を取り上げて、それらを伝えました。彼は、「わたしたちはわたしたちの前にいた多くの聖徒たちの肩の上に立っている」と言いました。これは主の回復の働きの継続でした。彼は1930年以前に一世紀からのキリスト教の文書を内容とする古典的なキリスト教の書籍を三千冊以上も集めていました。彼が20歳から25歳の時、彼の寝室は本に満ちていました。彼は特別な賜物を主から受けていました。彼はあるものを読む時、戻ってそれを見直す必要はありませんでした。彼はただ読んだことを徹底的に、正確に述べることができました。彼は聖書を知っており、命を知っており、主を知っており、教会を知っており、教会歴史を知っている人でした。

中国における教会生活の初期に人々がウォッチマン・ニー兄弟のもとに来た時、彼らはこの集まりがバプテスト教会であるのか、長老教会であるのか、ペンテコステ教会であるのか、ブラザレン教会であるのかと疑問に思いました。なぜなら、ウォッチマン・ニーの実行はバプテスト派で行うように、人々をバプテスマしました。また長老派が行うように、教会の統治を持ちました。またペンテコステ派が強調したその霊の注ぎ出しを経験しました。またブラザレンが解き放ったすべての真理を持っていました。ウォッチマン・ニーは一世紀からすべての聖徒を通して主が回復した多くの良い事柄を集めて、教会生活を実行しました。

Ⅱ. ウォッチマン・ニーが主から受けた啓示

ウォッチマン・ニー兄弟は主から多くの啓示を受けました。主から受けた啓示の総合計は「キリストと教会」です。キリストと教会は聖書の偉大な奥義です。キリストは内容であり、教会は表現です。言い換えると、キリストは内側でわたしたちの命であり、教会(召会)は外側でわたしたちの生活です。

以下はウォッチマン・ニーが受けた主からの啓示の主要な項目です。

A. 地方教会の境界

ウォッチマン・ニーは1933年と1934年に地方教会に関する真理を見ました。1933年に彼はブラザレンに招かれて、英国にいる彼らを訪問しました。彼らはまた彼をカナダとアメリカ合衆国に連れて行きました。その時、彼はブラザレンの諸集会の間にある混乱と分裂を見ました。一つの都市にいくつかのブラザレンの集会があり得たのです。このことがウォッチマン・ニーを悩ませました。ですから彼は一年を費やして新約聖書を再び読み、学んで、地方の集会、地方教会の境界がその地方教会の立っている地方(都市)の境界であることを見ました。

B. 地方教会の立場

1937年の初めに、ウォッチマン・ニーは地方教会の境界だけでなく、地方教会の立場も見始めました。ウォッチマン・ニーは新約聖書に戻って、教会の実行上の表現に関する真理を調べました。この聖書研究と学びによって、彼は一つの都市にただ一つの教会があるべきことを見いだしました。地方教会は、都市に在る教会です。地方教会の立場は、一の立場であり、それはまた地方の立場と呼ばれます。例えば、大阪市に住んでいるなら大阪に在る教会で集会します。調布市に住んでいるなら調布に在る教会で集会します。北京なら北京に在る教会、台北なら台北に在る教会です。これは聖書的であるだけでなく、あらゆる人間の好き嫌いによる分裂、分派を排除します。すべての兄弟姉妹が分派、分裂なく集まることのできる聖書的な立場は地方の立場です。この教会の立場はからだの交わりを保ちます。これが神の願っている教会の一の立場です。

C. 教会生活の実行

教会の立場を見た後、ウォッチマン・ニーは教会生活の実行に関してはっきりしました。1940年に彼はウィットネス・リーにこのように言いました、「兄弟、わたしたちはこの手に教会生活に関する青写真を持っているのです」。ウォッチマン・ニーは務めの中で正常なキリスト者の教会生活の実行を導きました。また、その実行を受け継いだウィットネス・リーはそれを中国北部に持って行き、実行に移しました。この青写真のすぐれたはたらきを通して、大復興が中国北部にもたらされました。この結果、ウォッチマン・ニーが受けた啓示の真実性が主の働きによって証明されました。

D. キリストのからだ

1940年からウォッチマン・ニーは、常にキリストのからだを強調しました。彼には、聖徒たちがからだを見ることで、とても負担がありました。彼はメッセージに次ぐメッセージ、特別集会に次ぐ特別集会を与え、常に一つの事柄、すなわち、キリストのからだを見ることを強調しました。彼はよく聖徒たちにからだを見たかどうかを尋ねました。そして数人に、彼らが見たと思っていたことの証しをするように求めました。彼らの証しの後に、「あなたはからだを見たことがありません」と彼は言いました。これはわたしたちがからだを教理的には知っていても、それがわたしたちにとって実際でないかもしれない可能性があるということです。彼は聖徒たちがキリストのからだのビジョンを必要とすることを繰り返し強調しました。

Ⅲ. ウォッチマン・ニーの務めの最後

ウォッチマン・ニー兄弟の務めは中国共産党による国の占領により終わりを迎えました。共産党はある場所を占領した後、二年の自由を与えました。ウォッチマン・ニーは1950年と1951年に二年間の自由がありました。この二年間に、彼は最善を尽くして、できるだけ多くの書物を出版しました。なぜなら、彼は逮捕され投獄されることを予期していたからです。1952年に彼は逮捕されて四年間、投獄されました。1956年には彼は十五年の投獄を宣告されましたが、その日から1972年に死ぬまで、獄中にとどまりました。こうして、彼は死ぬまで二十年間、獄に入れられました。

共産党の占領により、ウォッチマン・ニーはウィットネス・リーにこれまで回復された真理を宣べ伝えるべく台湾に渡るように告げました。そして、ウォッチマン・ニーの務めをウォットネス・リーが引き継ぎ台湾において務めを開始しました。

Ⅳ. ウィットネス・リーの主の回復における務め

1948年11月初めに、アメリカ合衆国の大統領選挙がありました。共和党デューイと民主党のトルーマンが大統領の選挙運動をしていました。大多数の中国人はデューイが当選することを願っていました。しかし、トルーマンがアメリカ合衆国の大統領に当選しました。これは、政治情勢が変化することを意味しました。このことにより共産党軍は浦口に来ており、国内を占領しようとしていました。ウォッチマン・ニーとウィットネス・リーは緊急の特別集会を持ち、祈り、どうすべきかを交わりました。しばらくの沈黙の後、ウォッチマン・ニーは言いました、「わたしはどのような状況の下でも、わたしたちがリー兄弟を出国させなければならないと感じます。その他の兄弟姉妹はここにとどまって、わたしたちの働きを継続する必要があります」。

1949年2月にウォッチマン・ニーは福州から上海へ飛び、緊急の同労者集会を持ちました。その集会でも彼は繰り返して言いました、「リー兄弟の個人的な感覚がどうであっても、わたしたちは彼に国を出ることを求めなければなりません」。彼はまた、残りの同労者たちが国にとどまって、最後まで主に対して忠信であるべきであると言いました。この言葉に対してウォットネス・リーの感覚はとても重かったと言います。なぜなら、みながとどまっているのに、自分は国外へ遣わされようとしていたからです。ですから、彼は言いました、「ニー兄弟、あなたは、あなたと残りの人たちはとどまって主に対して忠信であり、わたしが国を出るべき唯一の者であると言明しました。これは、わたしがここにとどまって主に対して忠信であるのにふさわしくないからですか?」。ウォッチマン、ニーはウィットネス・リーに言いました、「ウィットネス兄弟、わたしたちは主に信頼していますが、ある日、敵はわたしたちを一網打尽にする可能性があることを、あなたは認識しなければなりません。ですから、あなたは行かなければなりません。このようにして、わたしたちは依然として何かを残すでしょう」。

A. 台湾に移住する

1949年3月末に、共産軍が南京から上海に進入しようとしており情勢は緊迫しました。ある日、ウォッチマン・ニーはウィットネス・リーに電報を打ち、直ちに福州の彼の所に来るようにと求めました。ウィットネス・リーは福州に飛んでニー兄弟の訓練に参加しました。数日後、共産党が杭州から南下し、間もなく福州に到着するという知らせが来ました。ニー兄弟は直ちに兄弟たちに、航空券を買いリー兄弟に台湾へ行かせるように告げました。こうして1949年にウィットネス・リーは台湾へ行き、ウォッチマン・ニーの主の回復の務めを継続しました。

Ⅴ. ウィットネス・リーの中心的な務め

ウィットネス・リーは1949年の台湾において務めを開始し、1997年のアメリカにおいて務めを終えました。彼の働きは、ウォッチマン・ニーの務めの継続でした。彼はウォッチマン・ニーが受けた主からの啓示をさらに発展させ、実行に移し、神の働きを全世界へと拡大させました。

彼の務めは1949年に台湾から始まり、東南アジア、極東へと地方教会を拡大、拡充させました。1962年からはアメリカへ移住し、国際的に地方教会の働きを拡充させました。彼の働きは文字の務めであり、歴代の聖徒たちが受けてきた啓示をさらに深化させ、聖徒たちに命の言葉を供給しました。1974年からは、聖書全巻を神のご計画から解き明かす講解メッセージを開始し、それはライフスタディという書物として記録されています。また、聖書の霊的な理解を深めるために聖書の翻訳を行いました。

A. 台湾での働き

台湾の台北での務めは、1949年8月から約300人を収容できる集会所をもって始まりました。第一に彼らは、台北の人口にしたがって福音ビラを配りました。その当時、台北の人口はわずか七十万人でした。彼らは全台北にビラを配りました。第二に、巨大な文字で福音の標語を印刷し、それらを幹線道路、小さな路地、駅、その他の重要な場所に貼りました。第三に、福音チームを送り出し、毎週一度か二度、出て行きました。チームの人はみな福音シャツを着て、チームは通りを行進し、詩歌を歌い、太鼓をたたき、人々が救われるように手招きしました。最終的に、約400人が主日ごとに記名し、大勢が救われました。一年目に救われる人の人数は三十倍に増えました。

B. 極東、東南アジアでの地方教会の拡大と拡充

1957年に教会生活が日本に拡大しました。1966年に韓国で教会生活が始まりました。15年間で30の諸教会と1880人が起こされました。

東南アジアにおける主の回復は、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイに到達しました。現在フィリピンには122の地方教会があり、約16,000人の聖徒たちがいます。インドネシアには17の地方召会があり、タイには、12の集会する場所があります。

C. アメリカへの移住

ウィットネス・リーはアメリカで働きをする意図を持っていませんでした。それは、ウォッチマン・ニーとのある交わりによりました。ニー兄弟はリー兄弟に言いました、「地上には、主の回復のために困難である二つの地域がある。その一つはアメリカ合衆国であり、それはこの世的で物質主義的であるからです。もう一つは東南アジアであり、それはその地域の人々があまりにも怠惰であるからです」。このことのゆえに、ウィットネス・リーは初期の年月で、主の回復の場所としてアメリカ合衆国を考えていなかったのです。

しかし、主の導きによって1957年に一度目のアメリカ合衆国を滞在しました。二度目は1960年であり、一ヶ月ほどアメリカ合衆国で滞在しました。この当時、アメリカ合衆国には追い求めるクリスチャンはいたものの、誰も「教会の立場」についてはっきりしていませんでした。ウィットネス・リーはこの時、「教会の立場」についてのメッセージを解き放しました。これによって、多くの兄弟たちが「教会の立場」について光を得ました。

この責任の兄弟たちの間に、以前ブラジルで働いていた実に重みのある西洋の宣教師であったクラーク兄弟と、グルーラー兄弟がいました。彼らはいずれもロンドンのオナーオークに住んで、特別集会に参加し、そこで霊的な助けを受けました。リー兄弟との談話の中で、彼らは教会の立場について聞いたことがなかったが、それについて聞いた後、とても尊いと感じると言いました。この機会をとらえて、ウィットネス・リーは、立場の基礎を彼らに据えました。

ウィットネス・リーは言いました。「T・オースティン・スパークス兄弟は確かに霊的な度量を持っており、命とキリストのからだの面に関する原則、例えば、からだの中の交わりの必要を強調します。彼の助けに基づいて、わたしたちはここニューヨークにおいてからだの交わりを願っています。しかしながら、例えば、もし一人の兄弟が事を行うのに一つの方法を主張し、他の兄弟が別の方法を主張するなら、どうして交わりがあり得るでしょうか?ですから、わたしたちは、立場が制限であることを見なければなりません。二人の人がいるだけでなく、ニューヨークで交わりを慕っている多くの人がいても、どのようにしてこれら多くの人は交わりの中にとどまることができるでしょうか?制限としての立場がなければ、異なる見解があれば直ちに分裂があるでしょう。教会の立場は、からだの交わりの実行のために必要です」。彼らは完全にこの言葉を受け入れました。

ウィットネス・リーは1961年、三度目にアメリカ合衆国へ行き、しばらくニューヨークに住んで、通常の特別集会を持ちました。ある日、ある兄弟がリー兄弟に言いました、「リー兄弟、去年あなたが来たとき、立場に関する真理を解き放ち、ニューヨークに在る召会に多大な助けを与え、召会が基礎を持つようにされました」。この言葉を受け、ウィットネス・リーはアメリカ合衆国での滞在期間を延長しました。1962年秋以降、リー兄弟は台湾に帰国する予定でしたが、内側にとても重い負担を感じ、アメリカにとどまって働きを開始すべきであることがとてもはっきりしました。1962年、ウィットネス・リーは台湾に戻らないことを決定し、ロサンゼルスにとどまり、アメリカ合衆国において主の回復の働きを開始しました。

D.文字の務め

聖書にはただ一つの務めがあります。それは「キリストと教会」に関するものです。この唯一の務め、「その務め」とは神の言葉を用いて、キリストを供給し、召会を生み出し、聖徒たちを建て上げ、彼らを共に成長させ、キリストのからだとすることです。これが「その務め」です。

この唯一の務めは神の語りかけです。この神の語りかけは文字の働きによってウォッチマン・ニーによって始まりました。初期の頃、この文字の務めはニー兄弟自身に属しているものでした。彼がメッセージを与え、それから書房が彼の与えたメッセージを印刷し発行していました。ニー兄弟は1922年から「現在の証し」誌の発行を始め、1925年に「クリスチャン」誌の発行を開始しました。後に、一人では処理できないため、ウォットネス・リーに編集の仕事をするように案配しました。この書房は彼の個人的なもので、この文字の働きも彼個人のものでした。

ウィットネス・リーは1949年に台湾に渡り、台湾で働きを始めました。彼は台湾において文字の働きが必要であるという負担がありました。ニー兄弟との交わりの中で、1950年より、福音書房を上海以外に、一つを台北に、もう一つを香港に持つことになりました。ウィットネス・リーがアメリカで働きを始めた後、彼はすぐに「ストリーム」誌を登録し、出版しました。現在は規模も大きくなり、書籍だけでなく、オーディーオテープ、ビデオテープも出ています。毎週木曜日に、アナハイムのリビングストリームミニストリーから発行され、世界各地の400箇所の諸地方教会へ供給されています(現在はさらに増えています)。

E. ライフスタディと聖書の翻訳

1974年にウィットネス・リーは務めの拠点をロサンゼルスからアナハイムへと移しました。この時、彼はライフスタディの訓練を始める負担を持ちました。彼はアメリカでの務めの最初の11年間において、キリスト、教会、そして王国など、さまざまなテーマに関するメッセージを特別集会で語りました。しかし、聖書における全体的な啓示を完全に網羅するには、単一のテーマでは不十分であることに気づきました。そのため、彼は聖徒たちが聖書を一冊ずつ開くことができるよう、務めを進めていくべきだと感じました。このため、1974年に半期訓練を通じて聖書全体を一冊ずつ学ぶ「ライフスタディ」を始めました。これは全聖書を開く講解メッセージです。

またその後に、彼は一群れの兄弟たちと、英文聖書の翻訳の働きを始めました。その大部分はウィットネス・リーたちの訳ではありませんでした。むしろ、権威ある訳の聖書からエッセンスを集め、原文を参照し、それを経験に照らし合わせながら、それを編集しました。それを「回復訳聖書」と呼びました。英語版回復訳新約聖書は1987年に完成され、旧約聖書は2003年に完成されました。日本語版は新約聖書が1995年、旧約聖書が2009年で完成。中国語は新約聖書が1987年、旧約聖書が2003年に完成ました。またこの回復訳聖書は40以上の言語に翻訳されています。

翻訳と編集作業の大部分は数人のアメリカ人の兄弟が行い、ウィットネス・リーが審査して承認しました。この訳本に基づき、長い時間を掛けてフットノート(聖書註釈)を書きました。フットノート(聖書註釈)を書き終えた後、参照聖句を整えました。訳文の整理、フットノート(聖書註釈)を書くこと、参照聖句の編集、各所のアウトラインを書くこと、メッセージのアウトラインを書く事、この五つの項目の作業を終えるのに四ヶ月かかりました。ウィットネス・リーの負担は、全地の460以上の諸地方教会がみな御言から供給を受けることでした。ライフスタディは1974年から開始し、1995年に全聖書の講解メッセージが終了しました。その内容は全1984篇のメッセージが提供され、これらは聖書全体(旧約39巻+新約27巻)を網羅しています。これらそれぞれ書籍として販売されています。

ウィットネス・リーは言います、「歴代、多くの人々は聖書を学び、解説し、いくつかの傑作がありました。しかしながら、より完全で、より十分な基準の訳本は決してありませんでした。過去六十年において、主はわたしたちに多くの新しい光を見せてくださいました。これらは以前の人が見たことのないものです。わたしたちは、わたしたちの前にいた人たちの方の上に立って、さらに多くの啓示を得ました。これは解放されるべきです。ですから、わたしたちはライフスタディの訓練を持つのです」。

回復訳聖書の翻訳完成年代

新約聖書完成旧約聖書完成全聖書完成
アメリカ1987年2003年2003年
日本1995年2009年2009年
中国1987年2003年2003年
韓国1990年代完成(年不明)完成(年不明)
スペイン語1998年翻訳中翻訳中
ロシア語2000年代翻訳中翻訳中

Ⅵ. ウィットネス・リーの務め

ウィットネス・リーの務めは、真にウォッチマン・ニーの継続でした。その内容は「キリストと教会」であり、それをさらに深化させました。彼は神のエコノミー(神の経綸、神のご計画)に沿って務めを行いました。神のエコノミー(神の経綸、神のご計画)とは、神がキリストを通してご自身を人に分与し、召会を建造し、最終的に神と人が一つになるという永遠の計画を指します。この神のご計画の実現のために、各地方に地方教会を設立し、正常な教会生活の実行を導きました。彼は1997年96歳を持って、ご自身の務めを終えました。

しかし、主の回復の務めは現在も進行中です。この主の回復の務めは、全地にある諸地方教会のすべての聖徒たちによって行われています。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART7】英国、米国、南米における主の回復(20世紀)

【PART7】英国、米国、南米における主の回復(20世紀)

ブラザレンが起こされた後、神の回復の働きは大部分が完全でした。その後、神の回復の働きは徐々に継続しました。ブラザレンが起こされてから、100年の回復の働きは、ほとんどが英国においてでした。

Ⅰ. 各世界におけるその他の回復

A. 信仰によって生きる

神の御前で信仰によって生きることの回復は、ジョージ・ミューラーが中心人物でした。彼は、財政の実行上の事柄における祈りに対して、人は神の答えを見ることができると証ししました。これらの兄弟たちは、信仰によって生きる原則の下で生きました。なぜなら彼らはみな神の御前で信仰によって生き、宗教組織や人の方法から自由であったからです。

B. 勝利を得る

次は勝利を得る事柄の回復です。過去100年の教会歴史の歴史上の記録や伝記において、勝利を得る事柄を強調した一連の信者たちがいました。さらに、彼らは勝利を得る生活をしました。その一人にハンナ・ホワイトホール・スミス夫人がいました。彼女は、「クリスチャンの幸いな生活の秘訣」と呼ばれる本を書きました。これはケズィック・コンベンションに影響を及ぼしました。これらの信者たちは献身の真理だけを宣べ伝えました。彼らは、霊的な経験はすべて献身に基づいていると考えました。もし人が祈り、罪に打ち勝ち、力をもって福音を宣べ伝えることができないなら、それは彼が献身していないからであると言いました。

原則的に、回復があるとき、そこには主の臨在があります。しかし時が進んでいくにつれて、霊的な水準は落ちていきます。例えば、現在わたしたちが十六世紀に回復された信仰義認の真理を宣べ伝えることはどうでしょうか?もちろん、それは必要ですが、以前のように人に触れ、引き上げることないでしょう。なぜなら時代が変わっているからです。後ほど、ジェシー・ペン・ルイス夫人が立ち上がって、信者たちがキリストと共に十字架につけられることを宣べ伝えました。それは十字架の真理です。彼女は、どのようにして十字架がわたしたちの古い人を対処したかを説明しました。

命の事柄に関して、アンドリュー・マーレー兄弟がいます。彼はペン・ルイス夫人よりも少し早く、内住するキリストを真に知っていました。この後、T・オースティン・スパークス兄弟が出てきて、復活の事柄を見ました。ペン・ルイス夫人の中心的なメッセージはキリストの十字架であり、T・オースティン・スパークスの中心的なメッセージはキリストの復活です。これらは勝利を得る路線です。

  1. 信者の幸いの秘訣(ハンナ・ホワイトホール・スミス夫人)
  2. 内住するキリスト(アンドリュー・マーレー)
  3. キリストと共に死ぬ(ジェシー・ペン・ルイス夫人)
  4. 復活のキリスト(T・オースティン・スパークス)

これが適切な順序です。

C. 福音

無視すべてきでない別の大きな回復は、福音の回復です。英国でC・H・スポルジョンは伝道の王と呼ばれ、アメリカでD・L・ムーディーは伝道の大家と呼ばれました。彼らは多くの人を救いにもたらし、彼らの福音は多くの人に影響を与えました。この二人ほど福音を拡大した人はほとんどいません。

これに続いて国外伝道が起こりました。十九世紀の終わりに国外伝道は頂点に達しました。西洋の宣教団は全世界に福音を宣べ伝えました。それはアフリカ、南アメリカ、中国、日本、インド、さらには太平洋の孤島にまで及びました。

もし信仰による義認の回復から現在までのあらゆる回復の働きのリストを作るなら、聖書におけるほとんどすべての真理が回復されていることを見いだすでしょう。しかし、まだ回復されるべきものが残されています。それがキリストのからだの一の回復、正常な教会生活の回復です。以前として、キリストのからだがないのです。神はこの地上のキリストのからだを持つために中国で回復の働きを始められました。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

十九世紀の主の回復の働きは主の回復の黄金期と呼ばれます。主はこの時代で、神の聖徒たちに真理に対する大きな光を与えられました。

Ⅰ. ブラザレンによる教会生活の回復

十九世紀、1825年〜1828年に、主はジョン・ネルソン・ダービーのリーダーシップでブラザレンを起こしました。D・Mパントンはブラザレンの運動とその意義は宗教改革よりもはるかに大きなものであったと言いました。宗教改革は政府との結び付きのゆえに、いくらかこの世的でした。しかし、ブラザレンの間の動きは、真に霊的なものでした。彼らは主に対する彼らの働きにおいて、どんな宣伝をすることも好みませんでした。J・N・ダービーの一枚の写真を見つけることさえ困難です。これらの信者たちが見た光は、ツィンツェンドルフやモラビア兄弟団が見たものを超えていました。ウォッチマン・ニーは、英国ブラザレンが興されたことは啓示録(ヨハネによる黙示録)における七つの手紙の中のヒラデルヒヤに在る教会の成就であると考えることができると言いました。このことは、ブラザレンの初期の状態が教会生活の完全な回復であったことを証明します。彼らは真理についての豊富な理解力と良い霊的状態を持っていました。

Ⅱ. ブラザレンの分裂

マルチン・ルターの宗教改革は、閉じられた聖書を解放しましたが、彼は聖書を解釈しませんでした。聖書を読む人々は理解するのが難しいと感じました。ブラザレンが起こされた時はじめて、聖書が解釈されました。彼らは大部分の予言と予表を解釈しました。残念なことに、彼ら自身の前例のない聖書の理解力の結果、彼らは教理に注意を払い過ぎ、それは議論という結果になりました。残念なことに、ブラザレンの黄金時代は、ほんの短期間、続いただけでした。結局、彼らの間に亀裂が生じました。最初の分裂は、J・N・ダービーとベンジャミン・ニュートンとの間に起こりました。彼らの論争は、信者たちの携え上げに関してでした。ダービーは、大患難の前に携え上げに関して強硬でしたが、ニュートンは、大患難後の携え上げに関して強硬でした。

その後、彼らの間に第二の亀裂がありました。この分裂は、いわゆる閉鎖的ブラザレンと開放的ブラザレンとの間にありました。ジョージ・ミューラーは、ブラザレンの間で導く兄弟の一人でした。彼は真の神の人でした。彼は十九世紀に信仰の王と呼ばれました。しかし、彼の理解とダービーの認識との間には、大きな食い違いがありました。ダービーと彼の追従者たちは、宗派に依然として加わっているどんなクリスチャンも、受け入れないと主張しました。彼らはすべての宗派を罪、悪と考えました。こうして、彼らの目に、ある人がどれほど善良で霊的であっても、彼が宗派にとどまっている限り、この悪の仲間であると見なされました。彼は宗派の中のクリスチャンを悪の仲間と見なし、受け入れようとしませんでした。しかしながら、ジョージ・ミューラーは、これは公正ではないと言いました。彼は、宗派にかかわりのある多くの親愛なる聖徒たちも、やはり主にとても近いと言いました。彼らは、これらの信者たちは拒絶され得ないし、彼らは受け入れられなければならないと主張しました。これがダービーとミューラーの間の食い違いでした。それはブラザレンの間に、もう一つの分裂を引き起こしました。こうして、この時までに、ブラザレンの間に三つの主要なグループがありました。すなわち、ベンジャミン・ニュートンのグループ、閉鎖的ブラザレン、開放的ブラザレンです。

この後、ブラザレンの教理的な論争が日ごとに増し加わりました。90年後、第一次世界大戦の終わりに、ブラザレンは150以上の集会に分裂しました。今日、ブラザレンは1000以上の集会があります。それらは何度も分裂しました。ブラザレンの間の分裂の始まりは、携え上げに関する不一致にありましたが、彼らに啓示された真理は、主の子供たちすべてにとって大いに益となりました。根本主義的キリスト教の神学の90%以上は、ブラザレンの教えから来たと言われています。アメリカ合衆国において、多くの根本主義の神学校は、C・I・スコフィールドの教えを用いています。スコフィールド博士は偉大な学者であり、ブラザレンの研究者でした。彼が自分の引照付き聖書や聖書通信講座で書いたもののほぼ90%は、ブラザレンの教えから採用されました。根本主義の各宗派がブラザレンの動きに同意してもしなくても、彼らの根本主義的教えは、ブラザレンの教えによって大いに影響されました。ある意味で、ブラザレンの教えはいわゆる教会を助けましたが、別の意味でこれらの教えは分裂という結果となりました。ブラザレンの間の動きは、初めのころ、実に驚くべきものでした。これは黄金時代であり、それは教会生活にとって大いなる助けでした。

Ⅲ. ブラザレンの間の回復

ブラザレンを通しての主の回復の働きは極めて強力でとても豊富でした。主は彼らを通して多くの事柄を回復されました。それは「絶対的にこの世を放棄すること」「兄弟愛」「実行上の生活」「真理」「財物をささげる」などです。

A. 絶対的にこの世を放棄する

教会歴史において、ブラザレンのように明確にこの世と断絶したグループを見ることはまれです。彼らはモラビア兄弟団よりもはるかに前進していました。モラビア兄弟団は政治と宗教組織と断絶しました。しかし、ブラザレンは政治と宗教組織だけでなく、この世も放棄しました。彼らは絶対的で明確な方法で行いました。

今日でさえ、ブラザレンの間の何人かの人たちは、決して自分の写真を撮らず、いかなる写真も人に見せるために残しておきません。さらに、ブラザレンの指導者の一人であるジョン・ネルソン・ダービーの正統な伝記を見いだすことは困難です。なぜなら彼は人々に、自分の伝記を書いたり、自分が行ったことを宣伝したりすることを許さなかったからです。教会歴史全体において、彼らはこの世を放棄することで最も徹底していました。これは単に形式ではありませんでした。彼らはこの世から分離しただけでなく、実はそれを放棄したのです。

B. 兄弟愛

次に、ブラザレンは兄弟愛の実際を回復しました。現在のわたしたちクリスチャンの状態と100年前の彼らの状態を比較するなら、わたしたちははるかに遅れています。彼らはヒラデルヒアの教会にある兄弟愛の実際を持っていました。

C. 実行上の生活

さらに、教会歴史における他のどのクリスチャングループも、主の御前での実行上の生活の事柄でブラザレンに匹敵しないでしょう。ブラザレンの実行上の生活は彼らの家族を含みました。何人かの人は、全世界の最高のクリスチャン家庭はブラザレンの人たちであると言いました。この実行上のクリスチャン生活の回復は高く、大きく、強力でした。

D. 真理

ブラザレンの間のもう一つの特別な回復は、真理の回復でした。大部分のクリスチャンはブラザレンの間の真理と啓示の回復が、それ以前のすべてを凌ぐことを認めています。ダービーは聖書解釈の王と考えられます。今日のプロテスタント主義で教えられた正統な真理は、100%近くがブラザレンによって回復された真理からです。今日プロテスタント主義で教えられている正統な事柄は、ブラザレンの教えによって影響されてきました。

ムーディーは、全世界のすべての本が焼かれても、聖書の写しとブラザレンの著者であるC・H・マッキントッシュによる「モーセ五書の注釈」の写しを持てば満足するといいました。「スコフィールド聖書研究」は今日クリスチャンの間で普及しています。それは多くの伝道者にとってなくてはならない聖書研究書です。スコフィールドがこの二冊の出版物で書いたことの九割近くが、ブラザレンんの教えから採られました。今日、聖書の正しい知識を持って神の御前に生きている人はみな、ブラザレンによって助けられたと信じます。ブラザレンに反対する人たちでさえ、彼らから助けを受けています。

E. 財物をささげる

ブラザレンによって回復されたもう一つの事は、財物をささげることです。彼らは信者たちにささげるように決して促したり求めたりしませんでした。彼らはただ神のために生き、彼らの財物を神のために用いました。財物をささげる事柄で、ブラザレンに匹敵することができるグループを見いだすことは困難です。

十九世紀の回復の開始は絶大的なものでした。しかし、その結果は分裂となり、キリストのからだを引き裂くものでした。主はキリストのからだの建造のために、二十世紀において回復の働きをもたれました。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

十八世紀において、主はさらなる回復の働きを行われました。この主の回復は正当な教会生活の実行の開始でもありました。

Ⅰ. 組織と宗派を離れることの回復

十六世紀に宗教改革が完全に形成され、十七世紀に内なる命の認識が顕著でした。その100年後の十八世紀の初めにモラビア兄弟団とツィンツェンドルフ伯爵が起こされました。これは主の回復における重要な発展であり、それは政治と地上の組織を離れることを強調しました。

十六世紀の回復は信仰による義認でした。それは教会を政治から連れ出すことに失敗し、政治に巻き込まれさえしました。ツィンツェンドルフ伯爵と一群れの兄弟たちが起こされてはじめて、教会はこの世の政権と地上の組織とのきずなから逃れました。彼らがそのような回復を持つことができたのは、彼らの背景と彼らの長期間の展望のゆえでした。彼らの背景は、300年前にジョン・フスによって植えられた種でした。ジョン・フスの時代、北ヨーロッパの多くの人は純粋な心で主を愛して、彼らの時代の堕落した宗教を受け入れることができませんでした。彼らは組織化された教会に反対し、凶暴な迫害によって彼らの諸国から追い出されました。これらの信者たちはボヘミアに移住しました。

ボヘミアとモラビアに散らばっていた兄弟たちは避難するためにドイツに逃げました。十八世紀に、ドイツのザクセンにツィンツェンドルフという名の信者がいました。ツィンツェンドルフは伯爵であり、大きな私有地を所有しており、裕福でした。ツィンツェンドルフは主を愛していたので、迫害された兄弟たちを自分の私有地に迎え入れ、彼らを共に集めて、自由に神に仕えさせました。避難した大部分の信者たちはモラビア出身であったので、人々は彼らをモラビア兄弟団と呼びました。

ボヘミアはチェコ共和国の西半分にあり、オーストリアの北部にあって、第二次世界大戦の時、ヒトラーと英国が戦った場所です。モラビアの兄弟たちは主を愛したために迫害され、ボヘミアに移住しました。主を愛したツィンツェンドルフ伯爵はボヘミアに住んでおり、これらの兄弟たちを受け入れました。モラビアからの兄弟たちの地に、独立グループからの信者たちもそこに行きました。これらの信者たちは異なる場所の出身であったので、彼らはさまざまな教理に対して異なる見方を持っていました。これらの兄弟たちは、彼らの教理上の違いに関して異議を唱え始めました。ある日ツィンツェンドルフ伯爵は、協議会を招集して、彼らに自分の教理上の異なる違いを下ろすように説得しました。彼らは、彼らの間の一を保ち、教理における、また彼らの宗教的な背景における違いをわきに置くという協定に署名しました。ツィンツェンドルフは、主から彼らに与えられた知恵にしたがって、彼は彼らをその背景の下に置き、一の中で集会し始めるように導きました。涙を伴う多くの祈りを通して、また主の愛と知恵に依り頼むことによって、彼の私有地に避難を求めた信者たちが彼らの異なる意見を下ろし、教会の過去の教えを回復し、互いに愛し合い、一の中にとどまるように励ましました。

その後、彼らは主の食卓を持っていた時、聖霊の注ぎ出しを経験しました。それまでの教会歴史において、彼らの間には最も強いリバイバルがありました。そして彼らは、地上で最も優勢なクリスチャンの群れの一つとなりました。彼らの集会の状態は教会生活の完全な回復と考えられることはできませんが、彼らは少なくとも教会生活の70%を持っていました。ルターの宗教改革のおよそ200年後、正常な教会生活がついに始まりました。彼らは自分たちの地を離れてボヘミアに移住したとき、自然にこの世の政治組織、また召会の堕落した組織との関係を断ち切りました。

Ⅱ. 福音を宣べ伝えることの回復

歴史家たちは、ツィンツェンドルフが教会の中でいかなる特別な称号も持ったことを記録していません。彼は聖職者ではありませんでした。彼はモラビア兄弟団の間で単に兄弟でした。これらの兄弟たちはこの世と宗教の組織を離れました。50年で彼らは伝道団を派遣して外国の地で福音を宣べ伝え、それは前の二世紀に全世界のすべての伝道団が派遣したものより多かったのです。彼らはこの世と宗教の組織を離れたので、聖霊は彼らの間で働くことができました。彼らは地に出て行って福音の証しをすべての人にもたらすことを回復しました。さらに、モラビア兄弟団には多くの特別な特徴がありました。それは、互いに愛し合うこと、また一つ思いの状態を持つことなどです。ジョン・ウェスレーは彼らによって成就されました。

Ⅲ. 聖なる生活の回復

次の回復は聖なる生活の回復でした。この回復は、ウェスレー家と彼らに従う者たちによってもたらされました。ウェスレー家の兄弟たち、ジョンとチャールズは、英国のオックスフォード大学の優秀な学生でした。ジョン・ウェスレーは説教を宣べ伝えることですばらしく、チャールス・ウェスレーは詩歌を書くことですばらしかったのです。彼ら二人は、人が聖なる生活をするべきであることを宣べ伝えました。ですから、彼らはどのように聖なる生活をするかについて、人々が従うべき多くの規則を作りました。彼らの規則のいくつかは真理にしたがっていましたが、彼らはまたいくらか間違いました。

神はジョン・ウェスレーを起こして英国で回復の働きを行わせましたが、彼はモラビアの人たちによって大いに影響され、教えの事柄で彼らから多くの助けを受けました。ですから、ジョン・ウェスレーによって宣べ伝えられた言葉は、おもにモラビア兄弟団から来ました。

その後、アンドリュー・マーレーの教えはおもにウィリアム・ローの働きに基づいていました。ウィリアム・ローは奥義派の人たちに大きな変化をもたらしました。ウィリアム・ローの時代、奥義派の人たちの教えは拡大することができませんでしたが、彼の変化の後、彼らの教えはさらに実際的になりました。アンドリュー・マーレーの教えの多くはウィリアム・ローの著作から派生しており、それゆえに奥義派からでした。ジョン・ウェスレーは奥義派の影響から逃れることはできませんでした。ですから、聖についての彼の教理の多くの面が、奥義的な観点を含んでいます。この影響が、真理の認識が十分に正確ではありませんでした。

しかし、ウェスレーの回復はとても強力でした。それは人々を召して罪に打ち勝つ生活をさせ、多くの人に聖なる生活を追い求めさせる回復でした。ウェスレー派で最も有名な人はジョージ・ホイットフィールドであり、彼はとても有能でした。ウェスレー家とホイットフィールドは、未信者に福音を宣べ伝えませんでした。そうではなく、彼らはクリスチャンに福音を宣べ伝えました。彼らは、もし人が再生されていないなら、聖別されないと言いました。これは人々に大きな転換をさせ、彼らの生活に変化を持たせました。人々は乱雑な生活をしていましたが、その当時、彼らの生活に変化がありました。主要なことは、この当時に多くの人が転換したということです。この回復は、幕屋の周りの白い亜麻布のあげばりの境界線が、さらに明確に引かれるようにしました。

そして、主の回復の働きは十九世紀に突入します。この時期の主の回復の働きは黄金期と呼ばれています。ジョン・ネルソン・ダービーを含むブラザレンは、今日のわたしたちキリスト教神学の大きな助けとなっています。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

17世紀において、主は内なる命の経験の回復をもたらされました。この回復はプロテスタント運動の中にではなく、ローマ・カトリック教会の中にいる主を愛する聖徒によってもたらされました。

Ⅰ. 命の認識の回復

教会歴史や霊的な伝記を注意深く研究するなら、マルチン・ルターは形式上、教会をカトリック主義から連れ出しましたが、ローマ・カトリック教会には、なおも多くの霊的な人々がいたことを見ます。トマス・ア・ケンピスはそのような人でした。彼はルター以前の時代にいました。ガイオン夫人は十七世紀の人でした。ガイオン夫人は奥義派の人たちに近かったのですが、奥義派の路線は彼女から始まったのではありません。ガイオン夫人の前にさえ、多くの人は神の御前で生きていました。これらの人は少数ではありませんでした。ローマ・カトリック教会は彼らを迫害しましたが、彼らはカトリック主義にとどまりました。

いくつかの事柄が、ローマ・カトリック教会の領域の人たちによって回復されました。プロテスタント主義は信仰による義認を回復しましたが、ローマ・カトリック教会にいる霊的な人たちは、内なる命の認識を回復しました。十六世紀のルターと十七世紀のガイオン夫人との間の100年以上に、他の明確な回復はなく、ただ一般的な回復だけでした。第一の回復は信仰による義認であり、第二の回復は内なる命の認識でした。ガイオン夫人は内なる命の認識を回復した人たちの代表です。彼らは神との内なる交わりと神の御前に生きることに注意を払いました。歴史家たちは彼らを奥義派と呼んでいます。彼らの間で、フェネロン神父はとても有名です。他の多くの人がいましたが、彼らは隠されていたので彼らについての記録はほとんどありません。ガイオン夫人、フェネロン神父、ブラザー・ローレンスなど、これらの聖徒たちは、内なる命としてのキリストに関していくらか知りましたが、彼らには実行上の教会生活がありませんでした。彼らは依然としてローマ・カトリックの範囲の中にいました。依然としてマリア像に行きました。彼女はプロテスタント主義の死に対する反応として神によって用いられたにもかかわらず、教会について明確ではなく、カトリック主義の中の偶像についてさえ明確ではありませんでした。

Ⅱ. 宗派(私立教会)とフリーグループ

この時点で主は真理を愛する人々の群れを興されました。これらの信者たちは聖書の中にある多くの真理を見いだし、進んで立ち上がってこれらの真理を実行しました。彼らはローマ・カトリックによって統治されたり、国教会によって管理されたりするのを拒絶しました。こうして、十七世紀と十八世紀に多くのフリーグループが、バプテスト教会、長老教会、メソジスト教会などのいわゆる単立教会や私立教会を形成しました。これらのグループは今日、異なる宗派です。

ある人たちは、正しいバプテスマは水に浸すことによることを見ました。自然に、これがバプテスト教会の始まりでした。バプテスト派は、多くの私立教会のうちの一つです。それは、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、国教会に加えて、いわゆる教会の第四の部類と考えられるでしょう。これらの私立教会は、バプテスト教会、長老教会、メソジスト教会などを含みます。今日、多くの私立教会があります。いわゆる教会の第五の部類は、フリーグループです。これらのフリーグループは、すべての聖書教会、単立教会を含みます。聖書教会、単立教会は、ローマ・カトリック、ギリシャ正教会、国教会、どの私立宗派にも属しません。聖書教会、単立教会の中にいる人たちは、彼らのすべての実行を聖書に基づいて持つように努めます。これらの聖書教会、単立教会に加えて、宗派の外で集会する他の多くのフリーグループがあります。

一世紀から始まって、教会は徐々に堕落し、真理から離れました。十七世紀と十八世紀までに、五つの大きな組織が生み出されました。それは①ローマ・カトリック、②国教会、③ギリシャ正教会、④私的に設立された私立教会(宗派)、⑤フリーグループです。しかしながら、あらゆる世紀には純粋な心で主を愛し、真理を愛する少数の人々がいました。これらの信者たちは、聖書の中で彼らが見た真理を実行しました。彼らのキリストについての理解は正確であり、彼らは文字と教理以上に、聖霊を重視しました。これらの信者たちは命を重視し、聖書的な方法にしたがって人々を共に集らせ、自由に礼拝させました。

Ⅲ. 階級制度と聖職者

使徒たちがまだ生きていた時、彼らは「だれでもあなたがたの間で偉大でありたい者は、あなたがたのしもべとなり」(マタイ20:26)という主の言葉を守りました。ですから、使徒たちが生きていた時、他の人たちを管理する偉大な人はいませんでした。パウロは聖霊の導きに従うことによって、各地方で長老を立てましたが、長老は信者たちの上に権力を振るう偉大な人たちではありません(Ⅰペテロ5:1-3)。「長老」という言葉は、命において円熟している信者たちを指します。長老たちはより経験があり、より洞察力があり、比較的思慮深いのです。彼らは年長である必要はありません。パウロはまた彼らを監督と呼びました(使徒20:28、Ⅰテモテ3:1-2)。原文の「監督」という言葉は、上から事柄を監督する人を指しています。長老は、より円熟している人を示していますが、監督は長老の機能、すなわち長老が行う事を示しています。「長老」と「監督」は両方とも同じ人を指しています。

使徒行伝第20章におけるパウロの言葉は、エペソに在る教会の監督が教会の長老であったことをはっきりと示しています(使徒20:17,28)。二世紀において、使徒たちが亡くなった後、イグナティウスという聖書教師が立ち上がりました。彼は主を愛し、最終的に主のために殉教しました。しかしながら、彼は彼の文書の中で監督と長老を二つのグループの人々に分離するという大きな間違いを犯しました。彼はまた監督に特別な権威を与えました。彼が書いたのは、長老が一つの地方におり、いくつかの地方の教会が共にグループとなって、監督の管理の下にある教区となるということでした。こういうわけで、監督は長老の上になりました。この一つの間違いは後に階級制度を生み出しました。この教えに基づいて、監督は長老の上におり、司教は監督の上におり、大司教は司教の上におり、ローマの枢機卿は大司教の上におり、教皇は枢機卿の間から選ばれました。監督のこれらの階級が聖職者と呼ばれます。歴史を通して、純粋な心で主を愛する者たちはローマ・カトリックの聖職者を拒絶してきました。しかしながら、最終的に国教会も聖職者制度を発展させ、いわゆる私立教会も牧師制度を発展させました。これらはみな中間階級です。これは啓示録(ヨハネによる黙示録)で記されている「ニコライの者」であり(啓(黙示録)1:6、2:15)、主が憎んでおられる者たちです。

Ⅳ. 勝利者

ルターは教会を改革しましたが、神は命の認識の回復をローマ・カトリック教会の内側に残されたかのようです。これはプロテスタント主義に対する神の反応でした。何世紀にもわたって、神の働きは人の行動に反応してきました。宗教改革はカトリック主義に対する反応でした。しかしながら、カトリック主義の内側にある命の認識の回復は、プロテスタント主義の律法主義と形式主義に対する反応でした。今日でさえ、多くのカトリック教徒は神の御前で生きています。彼らはプロテスタント主義をさげすんでいます。なぜなら、それは外側の形式を強調しすぎて、内なる命を無視しているからです。

啓示録(ヨハネによる黙示録)第2章18節から29節でテアテラに在る教会に対する手紙は、テアテラに在る教会の内側に「残りの者」と呼ばれる一群れの人たちがいて、彼らが勝利者であることを見せています。勝利者はプロテスタント教会だけでなく、ローマ・カトリック教会の中にもいます。神は内なる命の回復をカトリック主義の中に起こして、宗教改革が地上での彼の必要に応じることができないこと、プロテスタント主義が彼の証しの標準に符号しないことを見せられました。信仰による義認の回復は大きなことであり、命の認識の回復も大きな事柄でした。

神はルターを用いて「信仰義認」を、カトリックの主を愛する聖徒たちを用いて「内なる命の経験」と回復されました。しかし、主はそれだけでは止まらず、さらに進んだ回復の働きをおこなわれました。これは、主が現在おこなわれている「正常な教会生活」の開始でした。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

歴史を遡るなら、主の回復の働きは16世紀においてマルチン・ルターの宗教改革において顕著に見られます。16世紀の宗教改革は、キリスト教の歴史における大きな転換点でした。その中心人物の一人であるマルチン・ルターは、聖書の真理に立ち返ることを訴え、当時の教会のあり方に異議を唱えました。

Ⅰ. 「信仰による義認」の回復

590年に、グレゴリウス大王が法王の座を設立したとき、ローマ・カトリック教会が世界に完全に確立されました。900年以上経って、マルチン・ルターが十六世紀の初めに起こされました。ローマ・カトリック教会が確立された590年からマルチン・ルターが起こされる1517年までおよそ900年の期間、ローマ・カトリック教会は最善を尽くして教会を腐敗させ、堕落させ、変質させました。ローマ・カトリック教会の影響の下で、これは人類歴史における最も暗い期間でした。

マルチン・ルターはローマ・カトリック教会によって引き起こされて、真理を追い求め始めました。ルターは宗教改革における中心人物でしたが、単独ではありませんでした。実は、宗教改革はルターが起こされるはるか前に始まりました。ジョン・フスはルターが登場する前にローマ・カトリック教会を改革しようとしました。フスは主の御言から光を受けて、基本的な真理を語りました。彼の宣べ伝えはローマ・カトリック教会の教えに反していたので、彼は殉教しました。しかしながら、彼が中央ヨーロッパでまいた種は、100年後に実を結びました。

ジョン・フスで始まった教会の回復は、十分強くありませんでした。ルターが起こされてはじめて、教会の回復は十分に強く、完全になりました。ルターと共に立った人たちは、「信仰による義認」に関する真理を回復しました。彼らが回復した最初の事柄は、カトリック主義が神の救いを失ってしまったということでした。

早くから、ルターはローマ・カトリック教会を改革する事を求めていましたが、彼の計画を遂行することはできませんでした。しかしながら、法王の免罪符を売ることに関する乱用を、彼は容認することはできませんでした。法王の代理はあらゆる都市で免罪符を売っており、人々は免罪符を買う限り、彼らの罪は赦されると告げられました。このようにルターによる宗教改革の前、教会は極みまで堕落していたのです。

神の回復の働きは、信仰による義認の基本的な真理をもって始まりました。マルチン・ルターはこの事柄を、多くの光と大きな透明さをもって表現しました。しかしながら、ルターに従ってカトリック主義から出てきた人たちは十分に純粋ではなく、依然としていくらか混乱していました。ルターの時代、ローマ・カトリック教会は多くのヨーロッパ諸国の政府と連合していました。ですから、ルターはローマ・カトリック教会に挑戦したとき、関わった政府にも挑戦していました。しかしながら、いくつかの政府はローマ・カトリック教会と一つ思いではありませんでした。例えば、ドイツ周辺地域の国家はルターの連合しました。一方でルターはローマ・カトリック教会から迫害に苦しみ、カトリック主義を支援した政府によって悩まされましたが、もう一方で、ドイツなどの国によっていくらかの支援と保護を受けました。このような板挟み状態はルターを極めて困難な地位に置きました。

Ⅱ. 国教会

ドイツは国教会を設立し始めました。ルターは国教会が間違っていることを知っていましたが、彼はこの事柄において弱かったのです。なぜなら、彼はドイツの保護を必要としたからです。この後、英国、デンマーク、スウェーデンは相次いで従い、国教会を設立しました。国教会は王、あるいは皇帝をその代表とします。例えば、ドイツの皇帝はドイツの国教会の代表です。人がドイツ人である限り、彼はドイツ国教会のメンバーです。あらゆるドイツ国民は教会税を払わなければなりません。このゆえに、ローマ・カトリックの他に、いわゆる国教会があるのです。

ルターの著作ははっきりと、教会が国家から分離されるべきであることを、彼が知っていたことを示していますが、彼はこの分離を成し遂げることができませんでした。彼は、他の人がそれを行うことができることを望みました。ルターは、カトリック主義から抜け出し、プロテスタントとなりましたが、それは不完全なものでした。なぜなら、それは最初から明確に断ち切ることをしなかったからです。

信仰による義認は良い回復でしたが、ルターの死ぬ前でさえ、プロテスタントの諸教会は政治との連合のゆえに混乱していました。信仰による義認を受け入れた多くのプロテスタント信者は、教理を受け入れただけで真に再生されていませんでした。その結果、彼らの多くのこの世的な事柄をプロテスタント主義へともたらしました。「正常な教会生活」は、ルターの時代に回復されませんでした。主は彼を用いて、信仰による義認に関する真理を回復し、聖書を一般大衆に対して開きました。ルターは彼の命という代価を払って、この真理のために立ちました。ところが、彼は教会に関する真理にきた時、弱かったのです。彼は正常な教会生活を持つという神の真の意図に、わたしたちを連れ戻しませんでした。彼は信仰による義認の真理をもって回復を始めましたが、他に触れる価値があることを何も回復しませんでした。

ですから、啓示録(ヨハネによる黙示録)第3章で主はサルデスに在る教会に言われます、「あなたは生きているというのは名だけで、実は死んでいる。・・・残っているもの、死にかかっているものを堅固にしなさい。わたしは、あなたのわざのどれも、わたしの神の御前で完成されているのを見ていないからで在る。・・・サルデスには、自分の衣を汚さなかった者が数名いる」(啓示録(ヨハネによる黙示録)3:1-2,4)主からサルデスに在る教会へのこの言葉は、プロテスタント主義の状態に関する予言です。

誰もがルターを主の偉大なしもべと認めます。しかし、彼の間違いは教会のビジョンに欠けていたことです。わたしたち人は間違いを犯します。わたしたちの保護は、「教会とは何か?」を十分に認識することです。そして、神はこの回復の働きに続き、カトリックの中にいる主を愛する聖徒たちを用いて新たな回復の働きをおこなわれました。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

一世紀末から徐々に始まった教会の堕落は、五世紀から十五世紀にかけて、ローマ・カトリックの出現において頂点に達しました。この教会が堕落した中世の時代を「暗黒時代」と呼びます。

Ⅰ. 中世のローマ・カトリックと暗黒時代

一世紀末から徐々に始まった教会の堕落は、五世紀から十五世紀にかけて、ローマ・カトリックの出現において頂点に達しました。ローマ帝国は初めの三世紀にわたって教会を迫害しました。四世紀にローマ帝国はその態度を変えて、もはや教会を迫害するのではなく、それを歓迎し、それに特別な地位を与えました。これはコンスタンティヌスがローマの皇帝になった後に始まりました。コンスタンティヌス大帝が彼の帝国の権力を用いて二ケア会議を開き、二ケア信条を制定した時、教会は政治権力と結び付きました。これがローマ・カトリックの形成の始まりでした。彼は死の床にいつまでバプテスマされませんでしたが、キリスト教を歓迎しました。彼は多くの方法を用いて、民衆が異教の宗教を拒絶し、キリスト教を受け入れるように奨励しました。彼がこれを行ったのは神のためではなく、自分自身の政治権力を固めるためでした。

コンスタンティヌスの統治の期間、キリスト教はまだ公式の国教ではありませんでした。キリスト教が公式の国教として宣言されたのは、370年にテオドシウスの統治になってからでした。この時、すべてのローマ市民はクリスチャンになるように要求されました。ローマ帝国がキリスト教をその公式の宗教として受け入れ、教会が政治と連合した後、ローマ帝国の市民は彼らの習慣を教会の中へと持ち込みました。彼らが拝んだ女神アルテミスは、「聖なる母マリア」となりました。太陽を拝む祭日はキリストの誕生日と呼ばれ、クリスマスとなりました。

五世紀にローマの司教であるレオ一世は自分自身が教会の最高権威であると考え、最初の教皇となりました。六世紀までに教皇制度が確立され、それは西洋における諸教会を統一しました。こうして、ローマ・カトリック教会が正式に設立され、教会の堕落がその頂点に達しました。

1854年に法王ピウス九世は、マリアには罪がなかったと宣言する大勅書を発布しました。これは無原罪懐胎の教理です。この偽りの教えによれば、マリアは聖霊から身ごもったとき、原罪から逃れたのです。法王がこの宣言をした後、ローマ・カトリック全体が、マリアには罪がなかったことに同意しなければなりませんでした。法王はまた、使徒パウロを礼拝することを正式に確証しました。いわゆるカトリックの聖徒たちはみな、法王によって聖人と認められました。

ローマ・カトリックは、六世紀から十五世紀あるいは十六世紀まで、十世紀にわたって繁栄しました。ローマ・カトリックは一般の信者に聖書を読むことを禁じました。結果として、十世紀の期間にわたって光がなく、全世界は霊的暗闇に陥りました。歴史においてこの期間は中世の期間の暗黒時代と呼ばれています。

聖書によれば、神はこの時代に介入して教会を汚す事柄から対処することはされませんでした。例えば、教会の堕落、変質に関して、もし神が介入してその変質した状態を矯正されるなら、わたしたちはそれは良いことであると考えます。しかしながら、神は介入しないで、その変質を継続させ、さらに悪くなるようにさえしました。神はそれを起こるようにさえされます。

いずれにせよ、教会とローマ帝国との連合は、教会の行政と組織の変質を完成しました。それはペンテコステの日(教会が誕生した日、紀元34年頃)から約280年であり、この時から約1300年間をかけて教会は完全に変質しました。

Ⅱ. 教会の回復の兆し

教会が変質し、ローマ・カトリック教会になった後、ある意味でそれはこれ以上、変質し、堕落することができなくなりました。ローマ・カトリック教会は、極みまで堕落した後の教会の最高の例証です。ですから教会はもはや、さらに変質したり堕落したりすることはあり得ませんでした。この後、神は堕落しきった教会に介入され、マルチン・ルターを用いて回復の働きを行われました。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

真の教会歴史を知るためには、一世紀まで歴史を遡らなければなりません。実は、神の回復の働きは一世紀あたりに始まり、それは教会が荒廃した時でした。

Ⅰ. 主の回復の開始

まず聖書の歴史を振り返りましょう。聖書は一世紀の終わりに完成しました。聖書を書いた最初の人はモーセでした。彼は主イエスが生まれるおよそ1500年前に、すなわち3500年前に聖書の最初の五冊の書を書きました。モーセの後、さまざまな場所に住み、さまざまな時代に生きていた他の人々が、続けて聖書を書きました。主イエスの誕生のおよそ400年前に、あるユダヤ人の聖書学者たちがモーセ五書と、神によって霊感を受けた人によって書かれた他の霊的な巻物を集めました。この材料が調べられた後、三十九巻から神の聖なる言として承認されました。これは旧約の各書です。

旧約の最後の書はマラキ書です。マラキ書の執筆から主イエスの誕生までおよそ400年の期間、それ以上、神聖な言葉は書かれませんでした。およそ2000年前、主イエスが生まれ、33年半地上で生活し、死んで、葬られ、復活し、昇天しました。聖霊が下ってきて、教会が生まれました。これが使徒行伝第2章に記されているペンテコステです。この後、人々は新約を書きました。初めに、多くの福音書がありましたが、それは調べられ、査定され、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書だけが承認されました。福音書に続いて、使徒行伝があります。それはルカによって書かれました。使徒行伝の後、パウロの書簡があり、それはローマ人への手紙からヘブル人への手紙まで全部で十四巻あります。パウロは書簡をおおよそ54年から書き始め、およそ67年に完成しました。パウロの書簡に続いて、ヤコブの手紙、ペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙、ヨハネによって書かれた啓示録(ヨハネによる黙示録)があります。これらが新約の完全な文書です。

しかしながら、新約聖書は一世紀に調べられ、査定されたのではありません。それは一世紀の後、あらゆる場所の教会によって徐々に承認されてきました。一世紀の終わりの時、七巻の書、すなわち、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの第二の手紙、ヨハネの第二、第三の手紙、ユダの手紙、啓示録(ヨハネによる黙示録)は承認されていませんでした。キリスト教の教師たちが北アフリカのカルタゴでの会議のために集まった397年になってはじめて、これらの七巻の書は新約聖書の一部として承認され、新約には二十七巻あるということが結論づけられました。

A. パウロの完成する務め

一世紀末に、新約聖書はすべて承認されていたわけではありませんでしたが、神の啓示は完成しました。新約聖書の中心的な書物はパウロの書簡です。コロサイ人への手紙第1章25節でパウロは、彼の務めは「神の言葉を完成すること」であったと言います。これは、パウロが完成された神の言葉を書いたことを意味します。この完成する言葉の強調はキリストです。

パウロの書簡は、キリスト、その霊、命、教会について語っており、またキリストの死と復活について語っています。わたしたちはキリストの死と復活をおもに個人的な事柄として理解していますが、パウロがキリストの死と復活に関して語ることは、団体的な事柄、すなわち教会を強調します。ですから、パウロの神の言葉を完成する務めは、キリストが死と復活を通して、命を与える霊と成ってわたしたちの命となり、教会を生み出すことに関してです。これが、パウロが明らかにしていることであり、神の啓示です。

B. ヨハネの繕う務め

パウロの書簡が書かれた後、彼の死の前にさえ、完成された神の言葉は損害を受け、台無しにされました。このことは教会の堕落につながりました。結果として、およそ67年にパウロは、テモテへの第二の手紙を教会の堕落の予防注射として書いて、堕落の病原菌に対して戦いました。その後しばらくして、パウロは殉教しました。90年までにパウロの啓示は完全に破壊され、グノーシス主義などの多くの異端的な教えが教会の中へと入りました。

パウロの啓示と教会に対する損害のゆえに、主はヨハネを用いて繕う務めを行いました。ヨハネの務めは繕う務めです。繕うとは、壊れたものや傷ついたものを修理したり補修したりすることです。ヨハネは網を繕っている時に主イエスに召されました(マタイ4:21)。この繕う務めのために、ヨハネによる福音書、ヨハネの第一、第二、第三の手紙、啓示録が書かれました。ヨハネによって繕われた後、啓示のいくつかの点は、本来よりも強くなりました。厳格に言って、ヨハネの繕うことは回復の開始です。

Ⅱ. キリストのパースンと信条の起源に関する議論

教会歴史によれば、一世紀の終わりから始まった、キリスト論と関係のある大きな論争がありました。この論争は、どのようにしてキリストが神と人の両方であり得たかに関してでした。ある人たちは、キリストが神でなかったと言いました。他の人たちは、キリストが肉体において来れられたのではなく、人ではなかったと言いました。ですから、ヨハネは彼の福音書を書いて、キリストが神でないという異端に反論したのです。ヨハネによる福音書の最初に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。このことはイエスが神であることを綿密に見せています。ヨハネはまた彼の第一の手紙を書いて、キリストが肉体において来られたのではないという異端に反論しました。325年に、ローマの皇帝であるコンスタンティヌス大帝は、キリストのパースンに関する論争と関わりのあるすべてのキリスト教の教師を二ケアでの会議に集めました。今日に至るまでカトリックとプロテスタントは二ケア信条を堅固に保持しており、それを信仰の基本的な信条として尊重しています。

六世紀には、クリスチャンの中でキリストのパースンに関する異なる七つの学派が存在しました。第一の学派は、キリストには神性があるが、人性はない、すなわち、彼は神であって、人ではないというものです。第二の学派は、キリストには人性だけがあり、神性はない、すなわち、彼は人であるだけであり、神ではないというものです。第三の学派は、キリストには神性があるが、彼の神性は不完全であるというものです。第四の学派は、キリストには人性はあるが、彼の人性は不完全である、すなわち彼には人の体と魂があるが、人の霊はないというものです。第五の学派は、一人の人が二つの性質を所有することはできないので、キリストの神性と人性は区別があり、分離されているというものです。第六の学派は、キリストの神性と人性が結合して、第三の性質を生み出したというものです。第七の学派は正統で、正確であり、聖書的です。この学派は、キリストには神性と人性の両方があり、両方の性質が完全で、ミングリングされている(混ざり合わされている)が、第三の性質を生み出さないというものです。これは、キリストが真の神であり、また真の人であることを意味します。彼は神であり人であり、人であり神です。彼には神聖な性質と人の性質の両方がありますが、彼は依然としてひとりのパースンです。これが聖書におけるキリストのパースンの啓示です。

キリストのパースンに関する七つの学派

学派学派の主張内容の詳細
第1の学派キリストには神性があるが、人性はないキリストは神であって、人ではない。
第2の学派キリストには人性だけがあり、神性はないキリストは人であって、神ではない。
第3の学派キリストには神性があるが、彼の神性は不完全である神性があるが、それは完全ではない。
第4の学派キリストには人性があるが、彼の人性は不完全であるキリストには人の体と魂はあるが、人の霊がない。
第5の学派キリストの神性と人性は区別があり、分離されている一人の人が二つの性質を所有することはできないと主張。
第6の学派キリストの神性と人性が結合して第三の性質を生み出した神性と人性が融合し、全く新しい性質が誕生したと考える。
第7の学派キリストには神性と人性が完全にミングリングされている(正統的立場)キリストは真の神であり、真の人。神性と人性は完全にミングリングされているが、第三の性質は生まれない。

このように、およそ2000年前、主イエスが生まれ、33年半地上で生活し、死んで、葬られ、復活し、昇天し、聖霊が下ってきて、教会が生まれました。この後、100年足らずで教会の中にグノーシス主義などの異なる教えが忍び込み、教会は堕落しました。また六世紀には、キリストのパースンに関する七つの学派が存在するほどに、真理に関しても混乱していました。これが教会歴史の出発点であり、このために神は回復の働きを必要とされました。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【ダイジェスト版】隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

【ダイジェスト版】隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

「キリストの教会歴史を知りたい」と思ったあなたへ。

わたしたちが学ぶ教会史といえば、「ローマ・カトリックの成立」「宗教改革」「プロテスタントの発展」などが思い浮かびます。しかし、それらの出来事の背後には、もっと深い霊的な視点 があります。真の教会歴史とは、単なる宗派の変遷ではなく、神が堕落した教会を回復し続けている歴史なのです。 これを「主の回復」と呼びます。

「回復」とは、失われたものを取り戻し、元の正常な状態に戻すことを意味します。では、教会は何を失ったのでしょうか?それは 神が本来望まれた教会の姿 です。

初代教会は聖霊によって生み出され、キリストのからだとして機能していました。しかし、歴史が進むにつれ、人間の考え、伝統、権力が入り込み、教会は徐々に神の御心から逸れてしまいました。表面的には繁栄しているように見えても、本質を失ってしまったのです。これが 教会の堕落 です。 

しかし、神はこのままにはされませんでした。ある時代には個人を、またある時代にはグループを用いて、少しずつ失われたものを回復してこられました。この回復の働きは単なる過去の出来事ではなく、今も続いている神の働き なのです。

では、神は今、何をされているのでしょうか?もしあなたが 「神の現在の働きを知りたい」 と思うなら、まず教会の歴史を正しく知ることが必要です。教会歴史を学ぶことは、単なる知識の習得ではありません。それは、神の御心がどのように進められてきたのかを理解し、今の時代において私たちがどこに立っているのかを知ること です。

あなたが「教会歴史を知りたい」と思ったのは、もしかすると、こういった疑問を持ったからではないでしょうか?

  • 本当の教会の姿とは何か?
  • なぜキリスト教にはこんなに多くの宗派があるのか?
  • 今、自分の信仰は神の御心の中にあるのか?

これらの問いに答えるために、「神の回復の視点から見た教会の歴史」 を詳しくたどっていきましょう。

この記事では、教会の誕生から、堕落、回復の歴史を辿り、主の回復のために各時代に神が用いられた人々と、回復された真理を見ていきたいと思います。

目次

Ⅰ. 初期の教会(1世紀):神の回復の出発点

A. イエス・キリストの贖いと聖霊の降臨による教会の誕生(AD30-33)

主イエスは、十字架で人類の罪の贖いを完成し、復活して弟子たちにご自身を「聖なる息」として吹き込みました(ヨハネ20:22)。そして、ペンテコステの日に聖霊が降り、エルサレムにおいて地上に初めて教会が誕生しました(使徒1:8-14、使徒2:42-47)。これが教会の始まりです。

B. 使徒による教会の確立と拡大(AD33-65)

神は使徒たちを遣わし、教会を建造する働きを行われました。使徒ペテロの務めを通じて福音はユダヤ人に、使徒パウロの務めで福音は異邦人世界に広がりました。この務めにより全世界へと教会は広がりました。この務めの中で神はパウロに「神のエコノミー」(コロサイ1:25)を啓示しました。パウロが宣べ伝えた福音は「キリストと教会(召会)」についてであり、キリストのからだである教会の建造を宣べ伝えることが彼の務めの負担でした。

C. 異端の侵入による教会の堕落(AD65-)

しかし、教会は初期から異なる教えや分裂に直面しました。パウロはテモテに「ある人たちが異なる事を教えたりすることがないように」と命じました(Ⅰテモテ1:3-4)。教会の中に異端やグノーシス主義などの異なる教えが侵入したことにより、多くの聖徒たちが惑わされ、「使徒たちの教え」(使徒2:42)から離れ去っていきました。この「使徒たちの教え」とは異なる教えにより、教会は腐敗させられ、堕落し始めました。

D. 使徒ヨハネによる真理の修復(AD90-95)

異端や異なる教えは教会の中に蔓延し、教会は衰退と堕落の一歩を辿りました。一世紀の最期、神は使徒ヨハネを通して教会の破れ目を繕うために、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙、啓示録を書きました。繕うとは、壊れたものや傷ついたものを修理したり補修したりすることです。ヨハネは網を繕っている時に主イエスに召されました(マタイ4:21)。しかし、教会の衰退と堕落は止まることなく悪化の一歩を辿りました。

Ⅱ. 中世の時代(5〜15世紀)

A. 教会の堕落と暗黒時代の到来

476年に西ローマ帝国が崩壊し、中世が始まります。この時代はキリスト教歴史において「暗黒時代」とも呼ばれ、聖書は一般の民から閉ざされ、神の言葉の光が封じられました。ローマ・カトリック教会が権力を持ち、神の意図から逸脱した形で宗教的権威を振るいました。初代教会にあった霊的生命は失われました。この教会の堕落による暗黒時代は約1000年間続きました。この暗黒とは、神の光、神の介入、神の回復の働きがなかったということを意味します。

Ⅲ. 宗教改革(16世紀)

A. マルティン・ルターと聖書の回復

教会の歴史を辿れば、主の回復の始まりは十六世紀の宗教改革に行き着きます。それは、今から500年前の出来事です。1517年、ルターは「95カ条の論題」を発表し、カトリック教会の堕落や贖宥状(免罪符)の乱用を批判しました。これが宗教改革の始まりです。

ルターは「聖書のみ(Sola Scriptura)」「信仰のみ(Sola Fide)」という原則を掲げ、神と人との関係において教会や聖職者を介する必要がないことを強調しました。ルターは「信仰による義認」の真理を回復し、聖書を一般の人々が読めるようにドイツ語に翻訳しました。しかし、ルターの改革は完全ではありませんでした。教会生活の回復は成し遂げられず、彼は国家教会を取り入れたことで教会に政治的影響をもたらしました。

それでも、教会歴史を遡るならば、この時に主の回復の働きがあったことを見いだすことができます。ルターが提唱した、「聖書のみ」「信仰義認」「万人祭司」は、確かに主の御心であり、主が成された働きでした。

1. 回復された要素(16世紀)

ルターは以下の三項目の回復に寄与しました。

  1. 信者の信仰による義認
  2. 聖書が信仰の唯一の基準であること(聖書中心主義)
  3. 万人祭司の教え:全ての信者が神の御前に直接立つことができる。

Ⅳ. 更なる回復(17〜18世紀)

ルターの宗教改革以来、神はあらゆる国で、あらゆる人々を用いて、主の回復の働きを行われました。

A. 敬虔主義

敬虔主義(Pietism)は、十七世紀後半から十八世紀にかけて、ドイツを中心に展開された宗教改革後の運動であり、形式的な信仰に対する反発から生まれました。ルター派の伝統的な教会が教義重視に傾き、信仰が形式的になっていたことに不満を抱いた人々が、より内面的で実践的な信仰生活を求めたことが背景にあります。聖書の教えを生活の中で実践することで、信者が霊的に成熟することを目指しました。

B. 奥義派

奥義派(Mystics)とは、神との親密な交わりやキリストの内なる命の経験を強調した人たちです。彼らは、外面的な儀式や教義よりも、内面的で霊的な体験を重視しました。十七世紀に活躍したガイオン夫人(Madame Guyon)、フランソワ・フェネロン(François Fénelon)、ブラザー・ローレンス(Brother Lawrence)は、この霊的運動の代表者として知られ、神の臨在の意識や絶え間ない祈りを実践しました。

C. メソジスト運動

メソジスト運動(Methodism)は、十八世紀にイギリスで始まり、後に世界中に広がったプロテスタントの運動です。中心人物はジョン・ウェスレー(John Wesley, 1703-1791)であり、彼の弟チャールズ・ウェスレー(Charles Wesley)も賛美歌作家として重要な役割を果たしました。この運動は、個人の聖化(Sanctification)と信仰の実践を強調し、形式的な信仰を超えて具体的な生活の中でキリスト教信仰を表現することを目指しました。

D. モラビアン兄弟団

ニコラウス・ルートヴィヒ・フォン・ジンゼンドルフ伯爵(Nikolaus Ludwig von Zinzendorf, 1700-1760)は、十八世紀のモラビア兄弟団(Moravian Brethren)の指導者であり、彼の影響で教会生活の一部の回復が進みました。ジンゼンドルフの働きは、教理の違いを超えた一を実践しました。彼らは聖霊の注ぎを経験し、教会史上最も力強いリバイバルを引き起こしました。彼が導いた運動はキリスト教の歴史に深い霊的影響を与えました。

1. 回復された要素(17〜18世紀)

  1. 信者の聖化と霊的成長
  2. 内なる命の回復
  3. 霊的生命と教会の一致の回復
  4. 個人的な体験としての神との交わり。
  5. 敬虔な生活

Ⅴ. ブレザレン運動(19世紀)

A. 教会と天の召し

ブレザレン運動(The Brethren Movement)は、十九世紀初頭にジョン・ネルソン・ダービー(John Nelson Darby)などによって始まりました。この運動は、教派による分裂を避け、初代教会のシンプルな形での集会を目指しました。すべての信者が平等に奉仕する教会生活を理想としました。聖書に基づいて、「すべての信者が祭司である(万人祭司)」という考えに基づき、牧師や聖職者という階級を廃し、すべての信者が奉仕の役割を担いました。ブレザレンは、教会は人間の組織に依存するべきではなく、聖霊の導きに基づいて存在するべきとしました。この運動は、今日の福音派神学に多大な影響を与えています。真理の回復の90%はブラザレン運動によってもたらされたと言われています。

1. 回復された要素(19世紀)

  1. 地方教会という概念の萌芽。
  2. 教会の一致:キリストのからだとしての教会を再確認。
  3. 初代教会の単純な集会の形

B. ブラザレンの分裂

ブラザレン運動は、すべての信者が平等に奉仕することを重視し、教会生活において教理を厳格にするよりも、キリストにある一致を目指しました。しかし、やがて一部の指導者たちの間で教理と交わりに対する厳格な姿勢が強まり、オープン派とエクスクルーシブ派という形で分裂しました。ここでも、主の回復が完全に行われなかったことを見ることができます。

Ⅵ. 内なる命のさらなる回復と働き(20世紀)

20世紀に入ると、キリスト教会において「キリストを命として経験する」ことが、さらに深く追求されるようになりました。アンドリュー・マーレージェシー・ペンルイスT・オースティン・スパークスといった霊的指導者たちは、「命としてのキリスト」を深く探求し、十字架の経験や霊的戦いの教えを発展させました。また中国のウォッチマン・ニーとウィットネス・リーは、神のエコノミー、キリストと召会(教会)に関する真理を回復しました。

A. 霊的探究を求めた指導者たち

1. アンドリュー・マーレー(1828-1917)

マーレーは、キリストに全く依存する生活祈りの重要性を強調しました。彼の多くの著書は、信者が日常生活の中でキリストを命として経験するための実践的な教えを説きました。

2. ジェシー・ペンルイス(1861-1927)

ペンルイスは、十字架の経験と霊的戦いに焦点を当てました。彼女は、信者が自己を否定し、霊的な戦いに勝利するためには、十字架を深く経験する必要があると説きました。

3. T・オースティン・スパークス(1888-1971)

スパークスは、キリストの命の働きを通じて信者が霊的に成長し、教会が建造されることを教えました。彼の教えは、キリストの豊かさを経験することに重点を置いています。

Ⅶ. 中国における「主の回復」

中国は異邦の地であり、多くの信者はいませんでしたが、召会に関して複雑ではありませんでした。このゆえに、主は中国において彼の回復を開始することができたのです。こうして、中国において主の回復が始まりました。

A. キリストのからだの生活を実行

1. ウォッチマン・ニー(1903-1972)

ウォッチマン・ニー(Watchman Nee, 1903-1972)は、中国で初代教会の純粋な教え教会生活の回復を追求しました。彼はキリストの命を享受すること、信者が神の命に生きる教会生活を実践しました。ウォッチマン・ニーは地方教会のビジョンを受け、各都市ごとに「地方教会」を設立し、その地域の信者が一つの教会として集まる、地方教会の真理を回復しました。

2. ウィットネス・リー(1905-1997)

ウォッチマン・ニーの働きを引き継いだウィットネス・リー(Witness Lee, 1905-1997)は、ニーの教えを台湾、そしてアメリカをはじめとする世界各地に拡大しました。リーは「地方教会」を確立し、神のエコノミーの啓示をさらに発展させました。ウィットネス・リーは、ウォッチマン・ニーの地方教会の真理を引き継ぎ、正当な教会生活、クリスチャン生活の真理を確立しました。

3. 回復された要素(20世紀)

  1. キリストを命と経験する
  2. 地方ごとの教会生活(地方教会)。
  3. キリストのからだとしての教会生活。
  4. 神のエコノミー:神の計画のもと、信者が神の命を分与すること。

Ⅷ. 現在の主の回復(21世紀)

現在の主の回復は、次の三つの要素を軸に進んでいます。それは、すべてのすべてであるキリストの回復、キリストのからだの一の回復、そしてキリストのからだのすべての肢体の機能の回復です。これらは、キリストの豊かさを享受することを通して、信者たちが正当な教会生活を送り、キリストの花嫁を整え、主の来臨を迎えるための準備の歩みです。

1. すべてのすべてであるキリストの回復

すべてのすべてであるキリストの回復とは、信者たちが日常生活の中でキリストを命として享受し、キリストをすべてとする生活を回復することを意味します。これは、教義や形式にとどまらず、キリストが私たちの内側で実際に働かれることを経験することです。

2. キリストのからだの一の回復

キリストのからだの一の回復は、教会が地域ごとの地方教会の立場で一致し、すべての信者が分け隔てなく一つになることを目指すものです。

3. キリストのからだのすべての肢体の機能の回復

キリストのからだの肢体の機能の回復とは、教会においてすべての信者が霊的な機能を発揮し、からだ全体が建て上げられることを指します。これは、牧師や特定の指導者だけが奉仕するのではなく、全ての信者が神聖な命を分かち合い、互いに仕えることを意味します。

Ⅸ. まとめ:主の召しに応答する

私たちは、主の回復の中で、キリストの計り知れない豊富を享受し、その命を通じて教会生活を実践する者たちです。私たちの目標は、伝統や習慣に縛られることなく、神の当初の意図に従った教会生活を回復することです。この回復の働きは、歴史を通じて続いてきたものであり、最終的には新エルサレムにおいて完成します。

わたしたちは、キリストのからだの一を表現するために地方の合一の立場に立ち、神の純粋な言葉に基づいて教会生活を実行する使命が与えられています。神が進めておられるこの回復の中で、わたしたちはキリストの命を豊かに享受し、神の栄光のために一を保ちながら歩んでいます。最終的な目的は、終末においてキリストの花嫁としての教会が整えられ、神の目的が完全に成就することです。

以下の記事では、ダイジェスト版で書かれた内容を各時代ごとにさらに詳しく書かれています。PART 1から順番に読み進めてみてください!

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

Bible Letter

調布に在る教会では、聖書の真理をお届けする、メルマガを配信しています。ご登録いただくと、定期的に聖書の御言葉や真理に基づいたメッセージをお届けします。