あなたがもしクリスチャンになって、一度も罪に悩まされたことがなく、罪の感覚を失い、この世の人のように生きているなら、それはすでに良心が麻痺しているか、主を愛していないということでしょう。しかし、あなたがクリスチャンになった後に、常に罪に悩まされ、罪に打ち勝てず、罪に誘惑され、罪に敗北しているなら、それは「正常なクリスチャン」ではありません。なぜなら聖書は、クリスチャンは罪と死の法則から解放されている(ローマ8:2)と言っているからです。
人が主を信じると、すぐに罪から解放されることができます。しかし、すべて主を信じた人がこれを経験するとは限りません。主を信じても多くの人は罪から解放されないばかりか、しばしば罪悪の中に陥っています。間違いなく彼は救われていますし、主のものですし、彼らの中にはすでに永遠の命があります。しかし、彼らはしばしば罪に邪魔されて、自分が願うようには主に仕えることができないでいます。
主を信じてから罪に悩まされるのは、確かにとても苦しいことです。神に照らされている人は、鋭い良心を持っています。彼には罪の感覚があり、内側には罪を罪定めする命があります。それは罪に悩まされると苦しいと感じさせますし、がっかりさせます。これは確かにとても苦しい経験です。
それで、多くのクリスチャンは罪に打ち勝とうと思います。ある人は、罪には打ち勝つ必要があると思っているので、罪と争い、それに打ち勝とうとします。ある人は、罪は彼を不自由にしているので、もし努力奮闘すれば罪のなわめから解かれるとして、力の限り奮闘します。ある人は、祈りによって罪に打ち勝とうとし、必死に悔い改め、必死に罪を犯さないようにと神に助けを求めます。しかし、これらは**すべて人の意見であり、神の言葉ではなく、神の教えではありません。**これらの方法はすべて、人を勝利へと導くことができません。神の言葉は、わたしたちの力を用いて罪と格闘するようにとは決して言っていません。神の言葉は、罪から救われるように、あるいは罪から解放されるように、罪から自由を得るようにと言っています。
罪はもともと一つの力であり、それはあなたを捕まえていました。**今あなたはこの力を消すのではなく、主によってそれから解放していただくのです。**あなたはもともと罪を持っており、それを離れる方法がありませんでした。**今日、主はそれを打って死なせるのではなく、あなたをそれから引き離して、罪の力から救うのです。**初信者のクリスチャンは、主を信じたらすぐに罪から解放されることを知るべきです。罪から解放されるまで、幾つも曲がり角を曲がる必要はありません。主を信じたらすぐ自由の道を歩むべきです。さて、ローマ人への手紙第7章と第8章からこの問題を解決してみましょう。
Ⅰ. 罪は法則である
ローマ人への手紙第7章15節から25節は言います、「わたしは自分のしていることを認めません。なぜなら、わたしは自分の欲することを実行せず、かえって自分の憎むことを行っているからです。もしわたしの行っていることが、自分の欲しないことであるなら、わたしは律法が善であることに同意することになります。ですから、それを行ない出しているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行ない出すことはないからです。わたしは自分の欲する善を行なわず、かえって自分が欲しない悪を実行しています。もしわたしが欲していないことを行なうなら、それを行ない出すのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。そこでわたしは、善を行おうと欲しているわたしに、悪が共にあるという法則を見いだします。わたしは、内なる人によれば神の律法を喜びますが、自分の肢体の中には別の法則があって、わたしの思いの法則に逆らって戦っており、わたしの肢体の中にある罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見ます。何とわたしは苦悩している者でしょう!・・・このように、わたし自身、思いでは神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」。
15節から20節でパウロは、「欲する」「欲していない」という言葉を繰り返し用いています。ここでの重点は、欲する、欲しない、志を立てる、志を立てない、です。21節から26節では、彼はもう一つの重点、すなわち「法則」と見せています。この二つの重点がこの部分の聖書の鍵です。
わたしたちはまず、何を法則と言うのかをはっきりさせましょう。一般的に言うと、**法則の意味は、絶えず同じであり、例外がないことです。しかも法則には力があります。**法則の力は自然であって、人が作り出す必要はありません。例えば、引力は法則です。一つの物を上に向かって投げるなら、それは自然に地上に落ちてきます。手で引っ張り下ろす必要はありません。地球には自然にそれを引っ張り下ろす力があります。何を投げても、どこで投げても、いつ投げても、この法則は変わりません。
ローマ人への手紙第7章は、パウロが勝利を得ようと思っていたことを見せています。彼は罪を犯さないでいられたら、神が喜ばれる事をすることができたら、一番良いと思っています。彼は罪を犯すことを願わないし、失敗することを願いません。しかし結果は、彼は自分がしようとしても駄目であることを認めています。彼は言っています、「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行うことはないからです」。彼は罪を犯すことを願わないのに、犯してしまいます。彼は善をしようと願い、神の律法を行なうことを願っているのに、そうできません。言い換えれば、自分が願うことはすべてできません。自分が志を立てても全部できません。パウロの結果はすべて失敗です。ここからわかるように、勝利の道は人の願いにあるのではなく、人が志を立てて決心することにあるのでもありません。パウロは何度も志を立て、願った上にまた願いましたが、結果はやはり失敗でした。これは、しようとする意志は自分にあるが、それをする力がないことを、明らかに見せています。
なぜ「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行なうことはない」(ローマ7:18)のでしょうか?それは罪が一つの法則であるからです。パウロは21節で、しようとするが失敗するのは、罪が一つの法則であることを示しています。彼が善をしようと志を立てる度に、罪を犯す法則が彼と共にあるのです。彼は心の中では神の律法に従うのですが、彼の肉体は罪の法則に従うのです。彼が神の律法に従おうと決心する時、彼の肢体には別の法則があって、彼をその肢体の中にある罪の法則に従うようにとりこにするのです。
聖書の中で、パウロは罪が法則であると語った最初の人でした。これはとても重要な発見です!!!残念ながら、多くの人はクリスチャンになって何年も経つのに、罪が法則であることを見ていません。多くの人は、地球の引力が一つの法則であることを知っています。しかし彼らは罪も一つの法則であることを知りません。パウロも最初は知りませんでした。しかし、罪と格闘し、何度も敗北した結果、罪が法則であることを発見しました。
わたしたちの失敗の歴史はわたしたちに告げますが、誘惑が来た時、心の中では抵抗しようと思うのに、うまく抵抗できずに失敗してしまいます。二度目に誘惑がやって来ると、また抵抗し、結果はまた失敗です。これがわたしたちの失敗の歴史であり、一回、また一回とすべてこのようです。これは決して偶然ではありません。これは法則です。
Ⅱ. 人の意志は罪の法則に打ち勝つことができない
パウロが最初失敗したのは、ずっと自分の意志を用いて「欲したり」、「しようとした」からです。しかし、21節の後、パウロの目は開かれて、彼が対処しなければならない敵である罪は、法則にほかならないことを見ました。罪が一つの法則であるのを見ると、彼はため息をついて言うほかありませんでした、「何とわたしは苦悩している者でしょう!だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのでしょうか?」。彼は、意志をもって罪を対処することはできないことを認識しました。
何を意志と言うのでしょうか?意志とは、人の考え、つまり人が自分で決め、しようと思ったり、欲したり、主張したり、決断したりすることです。人の意志は、一つの事をやろうと決めると、それを遂行しようとします。人の意志は力を生み出すことができます。ですから、意志には力があります。
例えば、たばこを吸っていた人がキリストを受け入れたとします。その人は、クリスチャンはたばこを吸うべきではないと思いました。そして、彼はたばこを辞めることを決意します。しかし、結果はどうでしょう?彼は辞めようとすればするほど、たばこを吸いたいという衝動に駆られるでしょう。これは世的なことであるため、意志が強い人は克服することができるかも知れません。では、これはどうでしょう?
イエスはマタイによる福音書第5章28節で言いました、「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのである」。続けて、マタイによる福音書第6章44節は言います、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。極め付けには、マタイによる福音書第6章48節は言います、「だから、あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」。これは神が世の人を愛しておられる完全な愛で、世の人を愛しなさいという意味です。
人は良い事を行おうと、神の命令を守ろうと決意することができます。しかし、問題はここにあります。意志と罪の法則が相反する時、いったいどちらが勝利するかです。たいてい最初は意志が勝ちます。しかし、最後は必ず罪が勝ちます。
例えば、ある重さの本を手に乗せるとします。引力はそれを下に引っ張りますが、あなたは力いっぱいそれを支えます。しかし、法則が絶えずそこに働いて、それを地面へと引っ張ります。あなたはそれを落ちないように持ち続けます。結果、一時間は勝利するでしょう。二時間になると、少し疲れを覚え、さらに一時間経つと、あなたの手は言うことをきかなくなってしまい、手放さなないではいられなくなります。意志を用いて罪に打ち勝とうとするのもこのようです。意志は一時的に罪に抵抗することができますが、罪の力は人の意志の力をはるかに超えています。罪は法則であり、意志によって抵抗して消滅するものではありません。
例えば、かんしゃくを起こすのは、とてもわかりやすい罪です。ある人が耳障りの良くない言葉を一句語ると、あなたの内側は気持ちよく感じませんし、内側で反発してしまいます。その人がもう一句不愉快な言葉を口にすると、あなたはテーブルをたたいて、わめき、ののしり、何でもやってしまいます。しかし、自分はクリスチャンであるからかんしゃくを起こすべきではないと感じて、もう短気を起こすのはやめようと決心します。あなたは祈り、神が赦してくださったと信じ、またその人に罪の告白もしました。心の中もすっきりして、もう短気を起こすことはあるまいと思います。しかし、しばらくして、人がまた聞きづらい言葉を言うと、聞いていてまた耐えられなくなります。二度目、三度目と繰り返されるなら、あなたのかんしゃくは爆発するでしょう。この後、何度決心しても結果は同じです。これは法則であり、人の力では打ち勝つことができません。
パウロは、人が救われるのは意志によらないことを見ました。人がまだ意志の力に頼っている時は、神の救いの方法に頼ることができません。ある日、神の御前にひれ伏して、自分には方法がないことを認めて、何もしない時、何が救いであるかを見ることができるでしょう。そしてローマ人への手紙第8章を理解することができるでしょう。しかし、ローマ人への手紙第7章を軽視しないでください。わたしたちはまず第7章の認識があってはじめて、第8章を経験することができます。**問題は、あなたがローマ人への手紙第8章の教理を理解したかどうかではなく、あなたが第7章から出てきたかどうかです。**あなたが、罪は法則であり、意志は罪の法則に打ち勝てないことを見ていないなら、ローマ人への手紙第7章に閉じ込められてしまい、永遠に第8章に至ることはできません。では、勝利の方法はどこにあるのでしょうか?
Ⅲ. 命の霊の法則はわたしたちを罪の法則から解放する
ローマ人への手紙第8章2節は言います、「そこで今や、キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません。なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」。勝利の道は、罪と死の法則から解放されることです。
ここでは、「キリスト・イエスにある命の霊は、罪と死とからあなたを解放した」とは言っていません。(多くのクリスチャンはこのように思っているでしょう。)ここでは、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」と言っているのです。多くのクリスチャンは、命の霊が自分を罪と死から解放したと見るだけで**、命の霊の法則が罪と死の法則から自分を解放したということを見ていません。**多くのクリスチャンは、罪と死が法則であることを知るのに何年かかるかわかりません。また聖霊がわたしたちの上で法則であることを知るにもどれだけの年数がかかるかわかりません。ある日、主がわたしたちの目を開かれる時はじめて、罪が法則であることを見ます。また、ある日、聖霊も法則であることを見るに至ります。聖霊も法則であるのを見ることは、さらに大きな発見です。命の霊が法則であることを知った時、わたしたちは跳び上がって言うでしょう、「主よ、感謝します、ハレルヤ!」。人の意思は罪の法則に打ち勝つことはできません。しかし、命の霊の法則によって罪と死の法則から解放されます。
罪が法則であることを見ると、わたしたちはもはや決して自分の意志を用いて何かをしようとしなくなります。同様に、神の御前であわれみを受けて、聖霊も法則であるのを見た時も、わたしたちには大変化があります。多くの人は、命を与える霊(聖霊)はわたしたちに命を与えることができることしか見ていません。聖霊はわたしたちの内側でもう一つの法則であって、この法則によって自然に罪と死との法則から解放されるということを見ていません。この法則がわたしたちを救い、あの法則から解放してくれる時、少しの力も必要なく、決心する必要もなく、努力も必要なく、聖霊をしっかりつかまえることも必要ありません。この法則がわたしたちの中にあるので、わたしたちはそんなに忙しくする必要はありません。もしあなたが、主の霊はあなたの上で何もしてくれないと恐れて、試みが来た時、自分で早々と手助けするなら、それは聖霊があなたの内側で法則であることをまだ見ていないということです。
ある人があなたを理由もなく叱責したり、あるいはあなたを殴ろうとしたとします。どうしてかわからないのですが、あなたは不思議にこの件に打ち勝つことができます。すべての事柄が終わった後、あなたは自分が叱責された時、なぜ怒らなかったのだろうと不思議に思います。しかし、驚いたことに、あなたはどうしてかわからないのですが、その状況に打ち勝ったのです!そうです、すべての勝利はみな、無意識のうちに得るものです。それは聖霊の法則が働いているからです。知らず知らずのうちに勝利を得ることこそ、真の勝利です。
あなたが聖霊が法則であることを知り、一度このように経験すれば、あなたの内に住んでいる聖霊があなたに罪を犯させないので、罪を犯さないように決心する必要はないことを知ることができます。この法則はわたしたちの内側に住んでおり、罪と死との法則からわたしたちを解放します。わたしたちはキリスト・イエスの中におり、命の霊の法則もわたしたちの中にあって、自然にわたしたちを導いてくださいます。
まとめ
もし兄弟姉妹がこのことを見ることができるなら、真に罪から解放されます。聖書では、わたしたちの意志をもって罪に打ち勝ちなさいとは言っていません。聖書ではただ罪から解放されることをこう言っています、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」。命を与える霊の法則はわたしたちを罪と死の法則から引き出して解放します。
救われた人はみな、必ず解放の道を見なければなりません。第一に、罪はわたしたちの上で法則であるのを見ましょう。第二に、人の意志は罪の法則に打ち勝つことができないのを見ましょう。第三に、聖霊も法則であることを見ましょう。この法則がわたしたちを罪の法則から解放することができます。
聖霊はあなたの中で、時には命を現し、時には命を現さないと思ってはなりません。もしあなたがこう思っているなら、それは聖霊を知っているだけであって、聖霊の法則を知らないことを証明します。どうか、あなたが罪が法則であること、また聖霊も法則であることを見ることができますように。どうか神があなたの目を開いてくださり、この解放の道、勝利の秘訣をはっきりと見せてくださり、正しい道を歩ませてくださいますように!
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十五編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」