十八世紀において、主はさらなる回復の働きを行われました。この主の回復は正当な教会生活の実行の開始でもありました。

Ⅰ. 組織と宗派を離れることの回復

十六世紀に宗教改革が完全に形成され、十七世紀に内なる命の認識が顕著でした。その100年後の十八世紀の初めにモラビア兄弟団とツィンツェンドルフ伯爵が起こされました。これは主の回復における重要な発展であり、それは政治と地上の組織を離れることを強調しました。

十六世紀の回復は信仰による義認でした。それは教会を政治から連れ出すことに失敗し、政治に巻き込まれさえしました。ツィンツェンドルフ伯爵と一群れの兄弟たちが起こされてはじめて、教会はこの世の政権と地上の組織とのきずなから逃れました。彼らがそのような回復を持つことができたのは、彼らの背景と彼らの長期間の展望のゆえでした。彼らの背景は、300年前にジョン・フスによって植えられた種でした。ジョン・フスの時代、北ヨーロッパの多くの人は純粋な心で主を愛して、彼らの時代の堕落した宗教を受け入れることができませんでした。彼らは組織化された教会に反対し、凶暴な迫害によって彼らの諸国から追い出されました。これらの信者たちはボヘミアに移住しました。

ボヘミアとモラビアに散らばっていた兄弟たちは避難するためにドイツに逃げました。十八世紀に、ドイツのザクセンにツィンツェンドルフという名の信者がいました。ツィンツェンドルフは伯爵であり、大きな私有地を所有しており、裕福でした。ツィンツェンドルフは主を愛していたので、迫害された兄弟たちを自分の私有地に迎え入れ、彼らを共に集めて、自由に神に仕えさせました。避難した大部分の信者たちはモラビア出身であったので、人々は彼らをモラビア兄弟団と呼びました。

ボヘミアはチェコ共和国の西半分にあり、オーストリアの北部にあって、第二次世界大戦の時、ヒトラーと英国が戦った場所です。モラビアの兄弟たちは主を愛したために迫害され、ボヘミアに移住しました。主を愛したツィンツェンドルフ伯爵はボヘミアに住んでおり、これらの兄弟たちを受け入れました。モラビアからの兄弟たちの地に、独立グループからの信者たちもそこに行きました。これらの信者たちは異なる場所の出身であったので、彼らはさまざまな教理に対して異なる見方を持っていました。これらの兄弟たちは、彼らの教理上の違いに関して異議を唱え始めました。ある日ツィンツェンドルフ伯爵は、協議会を招集して、彼らに自分の教理上の異なる違いを下ろすように説得しました。彼らは、彼らの間の一を保ち、教理における、また彼らの宗教的な背景における違いをわきに置くという協定に署名しました。ツィンツェンドルフは、主から彼らに与えられた知恵にしたがって、彼は彼らをその背景の下に置き、一の中で集会し始めるように導きました。涙を伴う多くの祈りを通して、また主の愛と知恵に依り頼むことによって、彼の私有地に避難を求めた信者たちが彼らの異なる意見を下ろし、教会の過去の教えを回復し、互いに愛し合い、一の中にとどまるように励ましました。

その後、彼らは主の食卓を持っていた時、聖霊の注ぎ出しを経験しました。それまでの教会歴史において、彼らの間には最も強いリバイバルがありました。そして彼らは、地上で最も優勢なクリスチャンの群れの一つとなりました。彼らの集会の状態は教会生活の完全な回復と考えられることはできませんが、彼らは少なくとも教会生活の70%を持っていました。ルターの宗教改革のおよそ200年後、正常な教会生活がついに始まりました。彼らは自分たちの地を離れてボヘミアに移住したとき、自然にこの世の政治組織、また召会の堕落した組織との関係を断ち切りました。

Ⅱ. 福音を宣べ伝えることの回復

歴史家たちは、ツィンツェンドルフが教会の中でいかなる特別な称号も持ったことを記録していません。彼は聖職者ではありませんでした。彼はモラビア兄弟団の間で単に兄弟でした。これらの兄弟たちはこの世と宗教の組織を離れました。50年で彼らは伝道団を派遣して外国の地で福音を宣べ伝え、それは前の二世紀に全世界のすべての伝道団が派遣したものより多かったのです。彼らはこの世と宗教の組織を離れたので、聖霊は彼らの間で働くことができました。彼らは地に出て行って福音の証しをすべての人にもたらすことを回復しました。さらに、モラビア兄弟団には多くの特別な特徴がありました。それは、互いに愛し合うこと、また一つ思いの状態を持つことなどです。ジョン・ウェスレーは彼らによって成就されました。

Ⅲ. 聖なる生活の回復

次の回復は聖なる生活の回復でした。この回復は、ウェスレー家と彼らに従う者たちによってもたらされました。ウェスレー家の兄弟たち、ジョンとチャールズは、英国のオックスフォード大学の優秀な学生でした。ジョン・ウェスレーは説教を宣べ伝えることですばらしく、チャールス・ウェスレーは詩歌を書くことですばらしかったのです。彼ら二人は、人が聖なる生活をするべきであることを宣べ伝えました。ですから、彼らはどのように聖なる生活をするかについて、人々が従うべき多くの規則を作りました。彼らの規則のいくつかは真理にしたがっていましたが、彼らはまたいくらか間違いました。

神はジョン・ウェスレーを起こして英国で回復の働きを行わせましたが、彼はモラビアの人たちによって大いに影響され、教えの事柄で彼らから多くの助けを受けました。ですから、ジョン・ウェスレーによって宣べ伝えられた言葉は、おもにモラビア兄弟団から来ました。

その後、アンドリュー・マーレーの教えはおもにウィリアム・ローの働きに基づいていました。ウィリアム・ローは奥義派の人たちに大きな変化をもたらしました。ウィリアム・ローの時代、奥義派の人たちの教えは拡大することができませんでしたが、彼の変化の後、彼らの教えはさらに実際的になりました。アンドリュー・マーレーの教えの多くはウィリアム・ローの著作から派生しており、それゆえに奥義派からでした。ジョン・ウェスレーは奥義派の影響から逃れることはできませんでした。ですから、聖についての彼の教理の多くの面が、奥義的な観点を含んでいます。この影響が、真理の認識が十分に正確ではありませんでした。

しかし、ウェスレーの回復はとても強力でした。それは人々を召して罪に打ち勝つ生活をさせ、多くの人に聖なる生活を追い求めさせる回復でした。ウェスレー派で最も有名な人はジョージ・ホイットフィールドであり、彼はとても有能でした。ウェスレー家とホイットフィールドは、未信者に福音を宣べ伝えませんでした。そうではなく、彼らはクリスチャンに福音を宣べ伝えました。彼らは、もし人が再生されていないなら、聖別されないと言いました。これは人々に大きな転換をさせ、彼らの生活に変化を持たせました。人々は乱雑な生活をしていましたが、その当時、彼らの生活に変化がありました。主要なことは、この当時に多くの人が転換したということです。この回復は、幕屋の周りの白い亜麻布のあげばりの境界線が、さらに明確に引かれるようにしました。

そして、主の回復の働きは十九世紀に突入します。この時期の主の回復の働きは黄金期と呼ばれています。ジョン・ネルソン・ダービーを含むブラザレンは、今日のわたしたちキリスト教神学の大きな助けとなっています。

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【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」