一世紀末から徐々に始まった教会の堕落は、五世紀から十五世紀にかけて、ローマ・カトリックの出現において頂点に達しました。この教会が堕落した中世の時代を「暗黒時代」と呼びます。
Ⅰ. 中世のローマ・カトリックと暗黒時代
一世紀末から徐々に始まった教会の堕落は、五世紀から十五世紀にかけて、ローマ・カトリックの出現において頂点に達しました。ローマ帝国は初めの三世紀にわたって教会を迫害しました。四世紀にローマ帝国はその態度を変えて、もはや教会を迫害するのではなく、それを歓迎し、それに特別な地位を与えました。これはコンスタンティヌスがローマの皇帝になった後に始まりました。コンスタンティヌス大帝が彼の帝国の権力を用いて二ケア会議を開き、二ケア信条を制定した時、教会は政治権力と結び付きました。これがローマ・カトリックの形成の始まりでした。彼は死の床にいつまでバプテスマされませんでしたが、キリスト教を歓迎しました。彼は多くの方法を用いて、民衆が異教の宗教を拒絶し、キリスト教を受け入れるように奨励しました。彼がこれを行ったのは神のためではなく、自分自身の政治権力を固めるためでした。
コンスタンティヌスの統治の期間、キリスト教はまだ公式の国教ではありませんでした。キリスト教が公式の国教として宣言されたのは、370年にテオドシウスの統治になってからでした。この時、すべてのローマ市民はクリスチャンになるように要求されました。ローマ帝国がキリスト教をその公式の宗教として受け入れ、教会が政治と連合した後、ローマ帝国の市民は彼らの習慣を教会の中へと持ち込みました。彼らが拝んだ女神アルテミスは、「聖なる母マリア」となりました。太陽を拝む祭日はキリストの誕生日と呼ばれ、クリスマスとなりました。
五世紀にローマの司教であるレオ一世は自分自身が教会の最高権威であると考え、最初の教皇となりました。六世紀までに教皇制度が確立され、それは西洋における諸教会を統一しました。こうして、ローマ・カトリック教会が正式に設立され、教会の堕落がその頂点に達しました。
1854年に法王ピウス九世は、マリアには罪がなかったと宣言する大勅書を発布しました。これは無原罪懐胎の教理です。この偽りの教えによれば、マリアは聖霊から身ごもったとき、原罪から逃れたのです。法王がこの宣言をした後、ローマ・カトリック全体が、マリアには罪がなかったことに同意しなければなりませんでした。法王はまた、使徒パウロを礼拝することを正式に確証しました。いわゆるカトリックの聖徒たちはみな、法王によって聖人と認められました。
ローマ・カトリックは、六世紀から十五世紀あるいは十六世紀まで、十世紀にわたって繁栄しました。ローマ・カトリックは一般の信者に聖書を読むことを禁じました。結果として、十世紀の期間にわたって光がなく、全世界は霊的暗闇に陥りました。歴史においてこの期間は中世の期間の暗黒時代と呼ばれています。
聖書によれば、神はこの時代に介入して教会を汚す事柄から対処することはされませんでした。例えば、教会の堕落、変質に関して、もし神が介入してその変質した状態を矯正されるなら、わたしたちはそれは良いことであると考えます。しかしながら、神は介入しないで、その変質を継続させ、さらに悪くなるようにさえしました。神はそれを起こるようにさえされます。
いずれにせよ、教会とローマ帝国との連合は、教会の行政と組織の変質を完成しました。それはペンテコステの日(教会が誕生した日、紀元34年頃)から約280年であり、この時から約1300年間をかけて教会は完全に変質しました。
Ⅱ. 教会の回復の兆し
教会が変質し、ローマ・カトリック教会になった後、ある意味でそれはこれ以上、変質し、堕落することができなくなりました。ローマ・カトリック教会は、極みまで堕落した後の教会の最高の例証です。ですから教会はもはや、さらに変質したり堕落したりすることはあり得ませんでした。この後、神は堕落しきった教会に介入され、マルチン・ルターを用いて回復の働きを行われました。
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【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
参考資料
・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著
・召会の行程 ウィットネス・リー著
・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」