クリスチャンとお金 – 金銭の取り扱い – 初信者シリーズ21

クリスチャンとお金 – 金銭の取り扱い – 初信者シリーズ21

クリスチャンはお金とどのように付き合っていくべきでしょうか?クリスチャンは金銭をどのように取り扱うべきでしょうか?今回は、クリスチャンとお金について交わりたいと思います。

Ⅰ. 神の原則にしたがって金銭を取り扱う

ある人がすべてを売り払ってしまったとしても、自然と収入があるようになり、金銭はまたもや戻ってきます。一度、全財産を放棄したとしても、それはその人の上でもう金銭に力がなくなったということではありません。あるいは、ある人が一度は金銭を投げ出したとしても、その後、金銭はまたもや力を発揮して、彼は金銭を自分のものだと見なすようになってしまうかもしれません。ですから、信者は神の御前で継続して金銭を外に向かって与えることを学ぶべきです。

クリスチャンの金銭の扱い方は、未信者の金銭の扱い方と全く異なっています。クリスチャンの金銭の扱い方は与えることです。未信者の金銭の扱い方は、蓄えることです。今日、提起したい問題は、クリスチャンはこの地上でどのように生活したら事欠くことがないかということです。**神は、わたしたちがこの地上で生活するのに事欠くことはないと約束しておられます。空を飛ぶ鳥も食べ物に欠くことはありませんし、地のゆりも美しい装いに欠けることはありません。神の子供たちも決して衣食に欠けることはありません。もし神の子供たちに欠乏があるとすれば、決まってその原因があり、理由があります。収入に困難があるのは、その兄弟姉妹たちが神の原則にしたがって金銭を扱っていないからです。

あなたがいったん自分の財産のすべてを売り払って主に従った後は、神の原則に従って歩むべきです。もしあなたが神の原則に従わないなら、必ず苦境に立たされるでしょう。もしどのように自分の金銭を管理するかを学ばなければ、多くの困難にぶつかるでしょう。ですから、わたしたちがどのようにしたら神の富を得られるかを見てみましょう。

Ⅱ. 神の供給には条件がある

わたしたちは信者として、今日、地上で生活している時、食物、衣服、その他の必要について、主を仰がなければなりません。神のあわれみがなければ、わたしたちは地上で日を過ごすことはできません。これは裕福な人でさえそうです。もし富に執着するなら、それだけ悩みも多いことでしょう。主に信頼する人は、多くの蓄えがなくても、主が彼らを困難の中にとどめておかれません。主は彼らの必要すべてを供給することができます。しかし、神が供給されることには条件があることを、わたしたちはやはり認識しなければなりません。

神が空の鳥を養うことができるなら、わたしたちは生かしておくことができます。実際には、すべての鳥を養ったり、十分な肥料を供給して野のすべてのゆりを育てたりすることは、だれもできません。しかし、神には十分な豊富があって、空の鳥も野のゆりも生かしておくことができます。神は、わたしたちが何かに欠乏するのを見たくないのです。欠乏する者はみな、その人自身に問題があり、神の方法で自分の金銭を管理しなかったからです。神の法則にしたがって金銭を取り扱うなら、貧しくなることはありません。

ルカによる福音書第6章38節を読みましょう。この個所で神はどのような人に供給すると言っているでしょうか?あなたは、神は供給したいということを見るべきです。神が供給したいと思われるなら、それは出エジプト記で言われるように、吐き出すほどまで食べさせ、飽き足りるまで食べさせるのです。このことでは神には問題はありません。山々の牛も羊も神のものであり、すべてのものが神のものであるなら、なぜ神の子供たちは貧しいのでしょうか?なぜ神の子供たちは欠乏を経験するのでしょうか?それは、神が供給することができないからではありません。そうではなく、わたしたちが神の要求に応じる必要があるのです。そうしてはじめて、神の供給を受けることができます。ある条件にわたしたちが応じて、はじめて祈りが答えられることができます。救いでさえ条件があります。それは信じることです。すべての約束には条件があり、この条件を満たしてはじめて約束を得ることができます。同様に、神の要求を満たしてはじめて、神の供給を受けることができます。神の要求とは、与えることです。主は言われます、「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」。

Ⅲ. 与えれば自分にも与えられる

かなり苦しい状態にある兄弟姉妹は、彼らが与えることに不忠実であったからです。実は、彼らは収入に欠けているのではありません。聖書はある基本的な原則を見せています。それは、豊かになろうとするなら与えなければならず、富を蓄えれば貧しくなるということです。ただ自分のことだけを考えている人は、貧しくなるように定められています。与えることを学んでいる人はだれでも、富があります。神の御言葉はそう言っており、それは真実です。貧しくなりたくないなら、常に与えなければなりません。わたしたちが与えれば与えるほど、ますます神は与えてくださいます。余っているものをわたしたちが人に進んで分け与えようとするなら、人も将来、自分の余っているものを喜んでわたしたちに分け与えてくれるでしょう。

わたしたちが量るその量りで、わたしたちも量られるのです。わたしたちがある度量で兄弟姉妹を扱うなら、神は同じ度量でわたしたちを扱われるでしょう。もしわたしたちが他の人に、全く役に立たないもの、使いものにならないものを与えるなら、他の人も必ずわたしたちに、全く役に立たないもの、使いものにならないものを与えるでしょう。多くの人が収入に問題を持つのは、支出に問題があるからです。もし支出に問題がなければ、収入に問題があるとは想像しがたいことです。神の御言葉は実にはっきりしています。わたしたちが人に与えるなら、主はわたしたちに与えてくださいます。人に与えないなら、主は与えてくださいません。

わたしたちはクリスチャンになったらすぐに、金銭の基本的な学課を学ばなければなりません。クリスチャンには金銭を取り扱う唯一の方法があります。すなわち、わたしたちが受けるのは、与えることにかかっているということです。言い換えれば、クリスチャンの金銭の取り扱い方は、わたしたちが与えたものにしたがって受けるということです。この世の人は、受けたものにしたがって与えますが、わたしたちは与えたものにしたがって受けます。

人がわたしたちに与える前に、わたしたちがまず人に与えなければなりません。大部分の人は、与えることを根本的に学んでいません。彼らは常に、神が自分の祈りに答えてくださるように求めています。わたしたちは受けることができる前に、まず与えなければなりません。もし最近、何も受けなかったとしたら、それは与えることに問題があったことを意味します。人が与えることで問題を持つ時はいつも、欠乏を経験するでしょう。

Ⅳ. 金銭の取り扱いに関する二つの証し

A. モール氏の物語

イギリスのモール氏は「命と信仰」という雑誌の編集長でしたが、彼には主の御前で多くの長所がありました。聖書を認識していたことは、彼の長所の一つです。また彼は主に依り頼んで生活する人でした。欠乏することもよくあり、試練にもしばしば遭いました。彼はルカによる福音書第6章38節のこの一節を認識していたので、欠乏する時はいつでも家族にこう言いました、「ここ数日わたしたちの与えることできっと問題があったに違いない」。彼は、自分の家にはもう何もなくなってしまったとは言いませんでした。そうではなく、ここ数日の「与える」ことで問題があったと言ったのです。

ある時、彼の家にはほとんど何もなくなってしまいました。イギリス人にとって一番大切なものは小麦粉ですが、その小麦粉さえなくなってしまいました。一日、二日と待っても、何かを送ってくれる人はいませんでした。そこで彼は家族に向かって言いました、「きっとわたしたちの家には余分なものがあるのだ」。彼らはひざまずいて祈り、何が余分なのかを見せてくださるように主に求めました。祈り終わった後、手始めに屋根裏部屋の一つ一つの物を調べ、これは多すぎないかどうかを調べました。子供たちのものまで全部見ましたが、すべてちょうど必要なだけでした。そこで彼は主に、「多すぎるものは本当に一つもありません。主よ、わたしに与えてくださらないのは間違っています」と言いました。しばらくして彼は妻に言いました、「主は決して間違われません。きっと家にあるもので何かが多すぎるのだ」。そこで彼らはもう一度調べてみると、地下室に数日前にある人が贈ってくれた一箱のバターを見つけました。彼はこのバターの箱を見て、とても喜んで妻に言いました、「これがきっと多いに違いない」。

彼らは、「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」という主の言葉を知っていました。そこで急いでこの一箱のバターを誰かに与えようとしましたが、だれに与えたらよいのかを考えました。彼はその教会で責任を負っていた兄弟でしたので、すべての貧しい兄弟姉妹たちに少しずつ贈ることにしました。この老夫婦は、この一箱のバターをナイフで切り分けて一塊ずつ包み、兄弟姉妹たちの家に渡しに行きました。このように一つずつ渡し終わった時、彼は妻に言いました、「これでこの問題は解決しました」。そこで二人はひざまずいて祈りました、「主よ、あなたが語られたことを思い起こしてください。『与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」とあなたは言われました。どうか覚えてください。わたしには小麦粉がありません」。

その日は土曜日でした。そのバターを受け取った多くの人たちの中にとても貧しい姉妹がおり、しかも彼女は体が不自由で寝たきりでした。彼女は長いことバターなしでパンを食べており、それで「主よ、わたしをあわれんで少しバターを与えてください」と祈っていました。彼女がこのように祈って間もなくすると、モール氏がやって来てバターの一塊をくれたのでした。彼女はそこで主に感謝しました。しばらくして彼女はハッとして言いました、「モール兄弟は何の不足もなくてバターをわたしにくれたのでしょうが、主よ、もし彼が何かに欠乏しているなら、彼の祈りを聞いてあげてください」。モール氏は自分の欠乏を他の人に知らせたことのない人だったので、他の人は彼の欠乏に全く気付いていませんでした。しかも、モール氏はお金持ちの兄弟であるといううわささえありました。彼はいつも人に物を与えていました。しかし、この姉妹の祈りによって、その同じ日にモール氏は二袋の小麦粉を受け取り、彼の問題は解決したのです。

わたしたちは、神の言葉の一句一句すべてを信じるべきです。多くの人の問題は、神の言葉を神の言葉として信じないことです。もしあなたが他の人に与えるなら、他の人は必ずあなたに与えるでしょう。ですから、わたしたちは人に与えることを学ぶべきです。これがクリスチャンの金銭の取り扱いの原則です。

Ⅴ. クリスチャンが金銭を取り扱う方法

クリスチャンの金銭の取り扱い方は、お金を手の中に握っていることではありません。握れば握るほど、そのお金は死んでしまいます。それは与えれば与えるほど多くなります。あなたが与えれば与えるほど、ますます神はあなたに与えられるのです。

A. お金を取り出して種をまく

コリント人への第二の手紙第9章6節は言います、「少しだけ種をまく者は、少しだけ刈り取ります。そして祝福をもって種をまく者は、祝福をもって刈り取ります」。これも聖書の中で言われている金銭の取り扱い方の原則です。クリスチャンがお金を人に与えるというのは、それを取り出して種をまくことであり、捨ててしまうことではありません。あなたは与える時、種をまいているのです。

初信者の兄弟姉妹は、早いうちにお金を種としてまくことを学んでください。そうすれば、あなたがた自身に必要が生じた時、そのまいたものを刈り取ることができます。まいていないものを刈り取ることはできません。

B. 神にささげる

それだけではありません。旧約において神はイスラエル人に言われました、「十分の一全部を宝物倉に携えて来て、わたしの家に食物があるようにせよ。万軍のエホバは言われる。こうして、もし望むなら、これによって、わたしがあなたがたに天の窓を開き、祝福をあなたがたに注ぎ出して、余地がなくなるまでになるかどうか、さあわたしを試してみよ」。(マラキ3:10)。これも同じ原則です。

当時、イスラエル人は大きな貧窮と困難の中にありました。彼らはどのようにしてマラキ書第3章10節の言葉を遂行することができたのでしょうか?神は民を叱責して、人にはできない事も神にはできると告げられました。神は次のように言っておられるようでした「十分の一をことごとくわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしをためしてみなさい。わたしが天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしなさい」。

C. 金銭をまき散らす

箴言第11章24節は言います、「まき散らして、なお増し加えられる者があり、当然のことを惜しんで、かえって不足する者がある」。多くの人は、まき散らしていないのに、何も残りません。多くの人は、まき散らしているのに、富を得ています。これが神の言葉が見せているクリスチャンの金銭の取り扱いの原則です。

D. 供給の約束

ピリピ人への手紙第4章19節はとても特別な御言葉です。コリント人は与えることを渋りましたが、ピリピ人はとても気前よかったのです。パウロは何度もピリピ人から受けました。パウロはピリピ人に言いました、「そしてわたしの神は、彼の豊富にしたがって栄光の中で、キリスト・イエスの中で、あなたがたのあらゆる必要を満たしてくださいます」。パウロは、「『わたしの神』は・・・あなたがたのあらゆる必要を満たしてくださいます」と強調しました。金銭と贈り物を受ける神は、与える者の必要を供給してくださいます。

あなたの器に小麦粉がなくなり、瓶に油がなくなった時、どうか思い出してください。あなたはまず、残っているわずかのものでエリヤのためにパンを作り、神のしもべに食べさせなければなりません。わずかの油と小麦粉を取り、パンを作って預言者に食べさせなさい。しばらくすれば、この一握りの麦粉と何滴かの油で、あなたは三年半たべることができるでしょう。人の持っているものは、一回でさえ彼を養うのに十分でないかもしれません。しかし、それが与えられるなら、それは生計の手段となるのです。これがクリスチャンの金銭の取り扱い方です。

Ⅵ. わたしたちの金銭を手放す

新約も旧約も同じことを教えています。クリスチャンの道は貧しい道ではありません。神は、わたしたちが貧しいことを望まれません。もしわたしたちの間に貧しさや困窮があるなら、それはある人たちがお金をしっかりと握りしめているからです。あなたは自分を愛すれば愛するほど、ますます飢えるようになるでしょう。これは確かな原則です。わたしたちが金銭を手放し、それを地上に行き巡らせ、物事を行なわせ、神の奇跡の一部とならせ、祈りに対する神の答えの一部となることを、わたしたちは願います。そうすれば、わたしたちに必用がある時、神が供給してくださいます。

自分を神の御言葉の上に置きなさい。そうでないと、神はご自身をあなたの中で遂行できないでしょう。まず自分を神にささげ、それから金銭を与え続けなさい。そうすれば、神はあなたに与える機会を持たれるでしょう。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十四編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」