【PART7】英国、米国、南米における主の回復(20世紀)

【PART7】英国、米国、南米における主の回復(20世紀)

ブラザレンが起こされた後、神の回復の働きは大部分が完全でした。その後、神の回復の働きは徐々に継続しました。ブラザレンが起こされてから、100年の回復の働きは、ほとんどが英国においてでした。

Ⅰ. 各世界におけるその他の回復

A. 信仰によって生きる

神の御前で信仰によって生きることの回復は、ジョージ・ミューラーが中心人物でした。彼は、財政の実行上の事柄における祈りに対して、人は神の答えを見ることができると証ししました。これらの兄弟たちは、信仰によって生きる原則の下で生きました。なぜなら彼らはみな神の御前で信仰によって生き、宗教組織や人の方法から自由であったからです。

B. 勝利を得る

次は勝利を得る事柄の回復です。過去100年の教会歴史の歴史上の記録や伝記において、勝利を得る事柄を強調した一連の信者たちがいました。さらに、彼らは勝利を得る生活をしました。その一人にハンナ・ホワイトホール・スミス夫人がいました。彼女は、「クリスチャンの幸いな生活の秘訣」と呼ばれる本を書きました。これはケズィック・コンベンションに影響を及ぼしました。これらの信者たちは献身の真理だけを宣べ伝えました。彼らは、霊的な経験はすべて献身に基づいていると考えました。もし人が祈り、罪に打ち勝ち、力をもって福音を宣べ伝えることができないなら、それは彼が献身していないからであると言いました。

原則的に、回復があるとき、そこには主の臨在があります。しかし時が進んでいくにつれて、霊的な水準は落ちていきます。例えば、現在わたしたちが十六世紀に回復された信仰義認の真理を宣べ伝えることはどうでしょうか?もちろん、それは必要ですが、以前のように人に触れ、引き上げることないでしょう。なぜなら時代が変わっているからです。後ほど、ジェシー・ペン・ルイス夫人が立ち上がって、信者たちがキリストと共に十字架につけられることを宣べ伝えました。それは十字架の真理です。彼女は、どのようにして十字架がわたしたちの古い人を対処したかを説明しました。

命の事柄に関して、アンドリュー・マーレー兄弟がいます。彼はペン・ルイス夫人よりも少し早く、内住するキリストを真に知っていました。この後、T・オースティン・スパークス兄弟が出てきて、復活の事柄を見ました。ペン・ルイス夫人の中心的なメッセージはキリストの十字架であり、T・オースティン・スパークスの中心的なメッセージはキリストの復活です。これらは勝利を得る路線です。

  1. 信者の幸いの秘訣(ハンナ・ホワイトホール・スミス夫人)
  2. 内住するキリスト(アンドリュー・マーレー)
  3. キリストと共に死ぬ(ジェシー・ペン・ルイス夫人)
  4. 復活のキリスト(T・オースティン・スパークス)

これが適切な順序です。

C. 福音

無視すべてきでない別の大きな回復は、福音の回復です。英国でC・H・スポルジョンは伝道の王と呼ばれ、アメリカでD・L・ムーディーは伝道の大家と呼ばれました。彼らは多くの人を救いにもたらし、彼らの福音は多くの人に影響を与えました。この二人ほど福音を拡大した人はほとんどいません。

これに続いて国外伝道が起こりました。十九世紀の終わりに国外伝道は頂点に達しました。西洋の宣教団は全世界に福音を宣べ伝えました。それはアフリカ、南アメリカ、中国、日本、インド、さらには太平洋の孤島にまで及びました。

もし信仰による義認の回復から現在までのあらゆる回復の働きのリストを作るなら、聖書におけるほとんどすべての真理が回復されていることを見いだすでしょう。しかし、まだ回復されるべきものが残されています。それがキリストのからだの一の回復、正常な教会生活の回復です。以前として、キリストのからだがないのです。神はこの地上のキリストのからだを持つために中国で回復の働きを始められました。

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【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

十九世紀の主の回復の働きは主の回復の黄金期と呼ばれます。主はこの時代で、神の聖徒たちに真理に対する大きな光を与えられました。

Ⅰ. ブラザレンによる教会生活の回復

十九世紀、1825年〜1828年に、主はジョン・ネルソン・ダービーのリーダーシップでブラザレンを起こしました。D・Mパントンはブラザレンの運動とその意義は宗教改革よりもはるかに大きなものであったと言いました。宗教改革は政府との結び付きのゆえに、いくらかこの世的でした。しかし、ブラザレンの間の動きは、真に霊的なものでした。彼らは主に対する彼らの働きにおいて、どんな宣伝をすることも好みませんでした。J・N・ダービーの一枚の写真を見つけることさえ困難です。これらの信者たちが見た光は、ツィンツェンドルフやモラビア兄弟団が見たものを超えていました。ウォッチマン・ニーは、英国ブラザレンが興されたことは啓示録(ヨハネによる黙示録)における七つの手紙の中のヒラデルヒヤに在る教会の成就であると考えることができると言いました。このことは、ブラザレンの初期の状態が教会生活の完全な回復であったことを証明します。彼らは真理についての豊富な理解力と良い霊的状態を持っていました。

Ⅱ. ブラザレンの分裂

マルチン・ルターの宗教改革は、閉じられた聖書を解放しましたが、彼は聖書を解釈しませんでした。聖書を読む人々は理解するのが難しいと感じました。ブラザレンが起こされた時はじめて、聖書が解釈されました。彼らは大部分の予言と予表を解釈しました。残念なことに、彼ら自身の前例のない聖書の理解力の結果、彼らは教理に注意を払い過ぎ、それは議論という結果になりました。残念なことに、ブラザレンの黄金時代は、ほんの短期間、続いただけでした。結局、彼らの間に亀裂が生じました。最初の分裂は、J・N・ダービーとベンジャミン・ニュートンとの間に起こりました。彼らの論争は、信者たちの携え上げに関してでした。ダービーは、大患難の前に携え上げに関して強硬でしたが、ニュートンは、大患難後の携え上げに関して強硬でした。

その後、彼らの間に第二の亀裂がありました。この分裂は、いわゆる閉鎖的ブラザレンと開放的ブラザレンとの間にありました。ジョージ・ミューラーは、ブラザレンの間で導く兄弟の一人でした。彼は真の神の人でした。彼は十九世紀に信仰の王と呼ばれました。しかし、彼の理解とダービーの認識との間には、大きな食い違いがありました。ダービーと彼の追従者たちは、宗派に依然として加わっているどんなクリスチャンも、受け入れないと主張しました。彼らはすべての宗派を罪、悪と考えました。こうして、彼らの目に、ある人がどれほど善良で霊的であっても、彼が宗派にとどまっている限り、この悪の仲間であると見なされました。彼は宗派の中のクリスチャンを悪の仲間と見なし、受け入れようとしませんでした。しかしながら、ジョージ・ミューラーは、これは公正ではないと言いました。彼は、宗派にかかわりのある多くの親愛なる聖徒たちも、やはり主にとても近いと言いました。彼らは、これらの信者たちは拒絶され得ないし、彼らは受け入れられなければならないと主張しました。これがダービーとミューラーの間の食い違いでした。それはブラザレンの間に、もう一つの分裂を引き起こしました。こうして、この時までに、ブラザレンの間に三つの主要なグループがありました。すなわち、ベンジャミン・ニュートンのグループ、閉鎖的ブラザレン、開放的ブラザレンです。

この後、ブラザレンの教理的な論争が日ごとに増し加わりました。90年後、第一次世界大戦の終わりに、ブラザレンは150以上の集会に分裂しました。今日、ブラザレンは1000以上の集会があります。それらは何度も分裂しました。ブラザレンの間の分裂の始まりは、携え上げに関する不一致にありましたが、彼らに啓示された真理は、主の子供たちすべてにとって大いに益となりました。根本主義的キリスト教の神学の90%以上は、ブラザレンの教えから来たと言われています。アメリカ合衆国において、多くの根本主義の神学校は、C・I・スコフィールドの教えを用いています。スコフィールド博士は偉大な学者であり、ブラザレンの研究者でした。彼が自分の引照付き聖書や聖書通信講座で書いたもののほぼ90%は、ブラザレンの教えから採用されました。根本主義の各宗派がブラザレンの動きに同意してもしなくても、彼らの根本主義的教えは、ブラザレンの教えによって大いに影響されました。ある意味で、ブラザレンの教えはいわゆる教会を助けましたが、別の意味でこれらの教えは分裂という結果となりました。ブラザレンの間の動きは、初めのころ、実に驚くべきものでした。これは黄金時代であり、それは教会生活にとって大いなる助けでした。

Ⅲ. ブラザレンの間の回復

ブラザレンを通しての主の回復の働きは極めて強力でとても豊富でした。主は彼らを通して多くの事柄を回復されました。それは「絶対的にこの世を放棄すること」「兄弟愛」「実行上の生活」「真理」「財物をささげる」などです。

A. 絶対的にこの世を放棄する

教会歴史において、ブラザレンのように明確にこの世と断絶したグループを見ることはまれです。彼らはモラビア兄弟団よりもはるかに前進していました。モラビア兄弟団は政治と宗教組織と断絶しました。しかし、ブラザレンは政治と宗教組織だけでなく、この世も放棄しました。彼らは絶対的で明確な方法で行いました。

今日でさえ、ブラザレンの間の何人かの人たちは、決して自分の写真を撮らず、いかなる写真も人に見せるために残しておきません。さらに、ブラザレンの指導者の一人であるジョン・ネルソン・ダービーの正統な伝記を見いだすことは困難です。なぜなら彼は人々に、自分の伝記を書いたり、自分が行ったことを宣伝したりすることを許さなかったからです。教会歴史全体において、彼らはこの世を放棄することで最も徹底していました。これは単に形式ではありませんでした。彼らはこの世から分離しただけでなく、実はそれを放棄したのです。

B. 兄弟愛

次に、ブラザレンは兄弟愛の実際を回復しました。現在のわたしたちクリスチャンの状態と100年前の彼らの状態を比較するなら、わたしたちははるかに遅れています。彼らはヒラデルヒアの教会にある兄弟愛の実際を持っていました。

C. 実行上の生活

さらに、教会歴史における他のどのクリスチャングループも、主の御前での実行上の生活の事柄でブラザレンに匹敵しないでしょう。ブラザレンの実行上の生活は彼らの家族を含みました。何人かの人は、全世界の最高のクリスチャン家庭はブラザレンの人たちであると言いました。この実行上のクリスチャン生活の回復は高く、大きく、強力でした。

D. 真理

ブラザレンの間のもう一つの特別な回復は、真理の回復でした。大部分のクリスチャンはブラザレンの間の真理と啓示の回復が、それ以前のすべてを凌ぐことを認めています。ダービーは聖書解釈の王と考えられます。今日のプロテスタント主義で教えられた正統な真理は、100%近くがブラザレンによって回復された真理からです。今日プロテスタント主義で教えられている正統な事柄は、ブラザレンの教えによって影響されてきました。

ムーディーは、全世界のすべての本が焼かれても、聖書の写しとブラザレンの著者であるC・H・マッキントッシュによる「モーセ五書の注釈」の写しを持てば満足するといいました。「スコフィールド聖書研究」は今日クリスチャンの間で普及しています。それは多くの伝道者にとってなくてはならない聖書研究書です。スコフィールドがこの二冊の出版物で書いたことの九割近くが、ブラザレンんの教えから採られました。今日、聖書の正しい知識を持って神の御前に生きている人はみな、ブラザレンによって助けられたと信じます。ブラザレンに反対する人たちでさえ、彼らから助けを受けています。

E. 財物をささげる

ブラザレンによって回復されたもう一つの事は、財物をささげることです。彼らは信者たちにささげるように決して促したり求めたりしませんでした。彼らはただ神のために生き、彼らの財物を神のために用いました。財物をささげる事柄で、ブラザレンに匹敵することができるグループを見いだすことは困難です。

十九世紀の回復の開始は絶大的なものでした。しかし、その結果は分裂となり、キリストのからだを引き裂くものでした。主はキリストのからだの建造のために、二十世紀において回復の働きをもたれました。

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【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

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隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
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【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

十八世紀において、主はさらなる回復の働きを行われました。この主の回復は正当な教会生活の実行の開始でもありました。

Ⅰ. 組織と宗派を離れることの回復

十六世紀に宗教改革が完全に形成され、十七世紀に内なる命の認識が顕著でした。その100年後の十八世紀の初めにモラビア兄弟団とツィンツェンドルフ伯爵が起こされました。これは主の回復における重要な発展であり、それは政治と地上の組織を離れることを強調しました。

十六世紀の回復は信仰による義認でした。それは教会を政治から連れ出すことに失敗し、政治に巻き込まれさえしました。ツィンツェンドルフ伯爵と一群れの兄弟たちが起こされてはじめて、教会はこの世の政権と地上の組織とのきずなから逃れました。彼らがそのような回復を持つことができたのは、彼らの背景と彼らの長期間の展望のゆえでした。彼らの背景は、300年前にジョン・フスによって植えられた種でした。ジョン・フスの時代、北ヨーロッパの多くの人は純粋な心で主を愛して、彼らの時代の堕落した宗教を受け入れることができませんでした。彼らは組織化された教会に反対し、凶暴な迫害によって彼らの諸国から追い出されました。これらの信者たちはボヘミアに移住しました。

ボヘミアとモラビアに散らばっていた兄弟たちは避難するためにドイツに逃げました。十八世紀に、ドイツのザクセンにツィンツェンドルフという名の信者がいました。ツィンツェンドルフは伯爵であり、大きな私有地を所有しており、裕福でした。ツィンツェンドルフは主を愛していたので、迫害された兄弟たちを自分の私有地に迎え入れ、彼らを共に集めて、自由に神に仕えさせました。避難した大部分の信者たちはモラビア出身であったので、人々は彼らをモラビア兄弟団と呼びました。

ボヘミアはチェコ共和国の西半分にあり、オーストリアの北部にあって、第二次世界大戦の時、ヒトラーと英国が戦った場所です。モラビアの兄弟たちは主を愛したために迫害され、ボヘミアに移住しました。主を愛したツィンツェンドルフ伯爵はボヘミアに住んでおり、これらの兄弟たちを受け入れました。モラビアからの兄弟たちの地に、独立グループからの信者たちもそこに行きました。これらの信者たちは異なる場所の出身であったので、彼らはさまざまな教理に対して異なる見方を持っていました。これらの兄弟たちは、彼らの教理上の違いに関して異議を唱え始めました。ある日ツィンツェンドルフ伯爵は、協議会を招集して、彼らに自分の教理上の異なる違いを下ろすように説得しました。彼らは、彼らの間の一を保ち、教理における、また彼らの宗教的な背景における違いをわきに置くという協定に署名しました。ツィンツェンドルフは、主から彼らに与えられた知恵にしたがって、彼は彼らをその背景の下に置き、一の中で集会し始めるように導きました。涙を伴う多くの祈りを通して、また主の愛と知恵に依り頼むことによって、彼の私有地に避難を求めた信者たちが彼らの異なる意見を下ろし、教会の過去の教えを回復し、互いに愛し合い、一の中にとどまるように励ましました。

その後、彼らは主の食卓を持っていた時、聖霊の注ぎ出しを経験しました。それまでの教会歴史において、彼らの間には最も強いリバイバルがありました。そして彼らは、地上で最も優勢なクリスチャンの群れの一つとなりました。彼らの集会の状態は教会生活の完全な回復と考えられることはできませんが、彼らは少なくとも教会生活の70%を持っていました。ルターの宗教改革のおよそ200年後、正常な教会生活がついに始まりました。彼らは自分たちの地を離れてボヘミアに移住したとき、自然にこの世の政治組織、また召会の堕落した組織との関係を断ち切りました。

Ⅱ. 福音を宣べ伝えることの回復

歴史家たちは、ツィンツェンドルフが教会の中でいかなる特別な称号も持ったことを記録していません。彼は聖職者ではありませんでした。彼はモラビア兄弟団の間で単に兄弟でした。これらの兄弟たちはこの世と宗教の組織を離れました。50年で彼らは伝道団を派遣して外国の地で福音を宣べ伝え、それは前の二世紀に全世界のすべての伝道団が派遣したものより多かったのです。彼らはこの世と宗教の組織を離れたので、聖霊は彼らの間で働くことができました。彼らは地に出て行って福音の証しをすべての人にもたらすことを回復しました。さらに、モラビア兄弟団には多くの特別な特徴がありました。それは、互いに愛し合うこと、また一つ思いの状態を持つことなどです。ジョン・ウェスレーは彼らによって成就されました。

Ⅲ. 聖なる生活の回復

次の回復は聖なる生活の回復でした。この回復は、ウェスレー家と彼らに従う者たちによってもたらされました。ウェスレー家の兄弟たち、ジョンとチャールズは、英国のオックスフォード大学の優秀な学生でした。ジョン・ウェスレーは説教を宣べ伝えることですばらしく、チャールス・ウェスレーは詩歌を書くことですばらしかったのです。彼ら二人は、人が聖なる生活をするべきであることを宣べ伝えました。ですから、彼らはどのように聖なる生活をするかについて、人々が従うべき多くの規則を作りました。彼らの規則のいくつかは真理にしたがっていましたが、彼らはまたいくらか間違いました。

神はジョン・ウェスレーを起こして英国で回復の働きを行わせましたが、彼はモラビアの人たちによって大いに影響され、教えの事柄で彼らから多くの助けを受けました。ですから、ジョン・ウェスレーによって宣べ伝えられた言葉は、おもにモラビア兄弟団から来ました。

その後、アンドリュー・マーレーの教えはおもにウィリアム・ローの働きに基づいていました。ウィリアム・ローは奥義派の人たちに大きな変化をもたらしました。ウィリアム・ローの時代、奥義派の人たちの教えは拡大することができませんでしたが、彼の変化の後、彼らの教えはさらに実際的になりました。アンドリュー・マーレーの教えの多くはウィリアム・ローの著作から派生しており、それゆえに奥義派からでした。ジョン・ウェスレーは奥義派の影響から逃れることはできませんでした。ですから、聖についての彼の教理の多くの面が、奥義的な観点を含んでいます。この影響が、真理の認識が十分に正確ではありませんでした。

しかし、ウェスレーの回復はとても強力でした。それは人々を召して罪に打ち勝つ生活をさせ、多くの人に聖なる生活を追い求めさせる回復でした。ウェスレー派で最も有名な人はジョージ・ホイットフィールドであり、彼はとても有能でした。ウェスレー家とホイットフィールドは、未信者に福音を宣べ伝えませんでした。そうではなく、彼らはクリスチャンに福音を宣べ伝えました。彼らは、もし人が再生されていないなら、聖別されないと言いました。これは人々に大きな転換をさせ、彼らの生活に変化を持たせました。人々は乱雑な生活をしていましたが、その当時、彼らの生活に変化がありました。主要なことは、この当時に多くの人が転換したということです。この回復は、幕屋の周りの白い亜麻布のあげばりの境界線が、さらに明確に引かれるようにしました。

そして、主の回復の働きは十九世紀に突入します。この時期の主の回復の働きは黄金期と呼ばれています。ジョン・ネルソン・ダービーを含むブラザレンは、今日のわたしたちキリスト教神学の大きな助けとなっています。

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【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

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隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

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・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
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【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

17世紀において、主は内なる命の経験の回復をもたらされました。この回復はプロテスタント運動の中にではなく、ローマ・カトリック教会の中にいる主を愛する聖徒によってもたらされました。

Ⅰ. 命の認識の回復

教会歴史や霊的な伝記を注意深く研究するなら、マルチン・ルターは形式上、教会をカトリック主義から連れ出しましたが、ローマ・カトリック教会には、なおも多くの霊的な人々がいたことを見ます。トマス・ア・ケンピスはそのような人でした。彼はルター以前の時代にいました。ガイオン夫人は十七世紀の人でした。ガイオン夫人は奥義派の人たちに近かったのですが、奥義派の路線は彼女から始まったのではありません。ガイオン夫人の前にさえ、多くの人は神の御前で生きていました。これらの人は少数ではありませんでした。ローマ・カトリック教会は彼らを迫害しましたが、彼らはカトリック主義にとどまりました。

いくつかの事柄が、ローマ・カトリック教会の領域の人たちによって回復されました。プロテスタント主義は信仰による義認を回復しましたが、ローマ・カトリック教会にいる霊的な人たちは、内なる命の認識を回復しました。十六世紀のルターと十七世紀のガイオン夫人との間の100年以上に、他の明確な回復はなく、ただ一般的な回復だけでした。第一の回復は信仰による義認であり、第二の回復は内なる命の認識でした。ガイオン夫人は内なる命の認識を回復した人たちの代表です。彼らは神との内なる交わりと神の御前に生きることに注意を払いました。歴史家たちは彼らを奥義派と呼んでいます。彼らの間で、フェネロン神父はとても有名です。他の多くの人がいましたが、彼らは隠されていたので彼らについての記録はほとんどありません。ガイオン夫人、フェネロン神父、ブラザー・ローレンスなど、これらの聖徒たちは、内なる命としてのキリストに関していくらか知りましたが、彼らには実行上の教会生活がありませんでした。彼らは依然としてローマ・カトリックの範囲の中にいました。依然としてマリア像に行きました。彼女はプロテスタント主義の死に対する反応として神によって用いられたにもかかわらず、教会について明確ではなく、カトリック主義の中の偶像についてさえ明確ではありませんでした。

Ⅱ. 宗派(私立教会)とフリーグループ

この時点で主は真理を愛する人々の群れを興されました。これらの信者たちは聖書の中にある多くの真理を見いだし、進んで立ち上がってこれらの真理を実行しました。彼らはローマ・カトリックによって統治されたり、国教会によって管理されたりするのを拒絶しました。こうして、十七世紀と十八世紀に多くのフリーグループが、バプテスト教会、長老教会、メソジスト教会などのいわゆる単立教会や私立教会を形成しました。これらのグループは今日、異なる宗派です。

ある人たちは、正しいバプテスマは水に浸すことによることを見ました。自然に、これがバプテスト教会の始まりでした。バプテスト派は、多くの私立教会のうちの一つです。それは、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、国教会に加えて、いわゆる教会の第四の部類と考えられるでしょう。これらの私立教会は、バプテスト教会、長老教会、メソジスト教会などを含みます。今日、多くの私立教会があります。いわゆる教会の第五の部類は、フリーグループです。これらのフリーグループは、すべての聖書教会、単立教会を含みます。聖書教会、単立教会は、ローマ・カトリック、ギリシャ正教会、国教会、どの私立宗派にも属しません。聖書教会、単立教会の中にいる人たちは、彼らのすべての実行を聖書に基づいて持つように努めます。これらの聖書教会、単立教会に加えて、宗派の外で集会する他の多くのフリーグループがあります。

一世紀から始まって、教会は徐々に堕落し、真理から離れました。十七世紀と十八世紀までに、五つの大きな組織が生み出されました。それは①ローマ・カトリック、②国教会、③ギリシャ正教会、④私的に設立された私立教会(宗派)、⑤フリーグループです。しかしながら、あらゆる世紀には純粋な心で主を愛し、真理を愛する少数の人々がいました。これらの信者たちは、聖書の中で彼らが見た真理を実行しました。彼らのキリストについての理解は正確であり、彼らは文字と教理以上に、聖霊を重視しました。これらの信者たちは命を重視し、聖書的な方法にしたがって人々を共に集らせ、自由に礼拝させました。

Ⅲ. 階級制度と聖職者

使徒たちがまだ生きていた時、彼らは「だれでもあなたがたの間で偉大でありたい者は、あなたがたのしもべとなり」(マタイ20:26)という主の言葉を守りました。ですから、使徒たちが生きていた時、他の人たちを管理する偉大な人はいませんでした。パウロは聖霊の導きに従うことによって、各地方で長老を立てましたが、長老は信者たちの上に権力を振るう偉大な人たちではありません(Ⅰペテロ5:1-3)。「長老」という言葉は、命において円熟している信者たちを指します。長老たちはより経験があり、より洞察力があり、比較的思慮深いのです。彼らは年長である必要はありません。パウロはまた彼らを監督と呼びました(使徒20:28、Ⅰテモテ3:1-2)。原文の「監督」という言葉は、上から事柄を監督する人を指しています。長老は、より円熟している人を示していますが、監督は長老の機能、すなわち長老が行う事を示しています。「長老」と「監督」は両方とも同じ人を指しています。

使徒行伝第20章におけるパウロの言葉は、エペソに在る教会の監督が教会の長老であったことをはっきりと示しています(使徒20:17,28)。二世紀において、使徒たちが亡くなった後、イグナティウスという聖書教師が立ち上がりました。彼は主を愛し、最終的に主のために殉教しました。しかしながら、彼は彼の文書の中で監督と長老を二つのグループの人々に分離するという大きな間違いを犯しました。彼はまた監督に特別な権威を与えました。彼が書いたのは、長老が一つの地方におり、いくつかの地方の教会が共にグループとなって、監督の管理の下にある教区となるということでした。こういうわけで、監督は長老の上になりました。この一つの間違いは後に階級制度を生み出しました。この教えに基づいて、監督は長老の上におり、司教は監督の上におり、大司教は司教の上におり、ローマの枢機卿は大司教の上におり、教皇は枢機卿の間から選ばれました。監督のこれらの階級が聖職者と呼ばれます。歴史を通して、純粋な心で主を愛する者たちはローマ・カトリックの聖職者を拒絶してきました。しかしながら、最終的に国教会も聖職者制度を発展させ、いわゆる私立教会も牧師制度を発展させました。これらはみな中間階級です。これは啓示録(ヨハネによる黙示録)で記されている「ニコライの者」であり(啓(黙示録)1:6、2:15)、主が憎んでおられる者たちです。

Ⅳ. 勝利者

ルターは教会を改革しましたが、神は命の認識の回復をローマ・カトリック教会の内側に残されたかのようです。これはプロテスタント主義に対する神の反応でした。何世紀にもわたって、神の働きは人の行動に反応してきました。宗教改革はカトリック主義に対する反応でした。しかしながら、カトリック主義の内側にある命の認識の回復は、プロテスタント主義の律法主義と形式主義に対する反応でした。今日でさえ、多くのカトリック教徒は神の御前で生きています。彼らはプロテスタント主義をさげすんでいます。なぜなら、それは外側の形式を強調しすぎて、内なる命を無視しているからです。

啓示録(ヨハネによる黙示録)第2章18節から29節でテアテラに在る教会に対する手紙は、テアテラに在る教会の内側に「残りの者」と呼ばれる一群れの人たちがいて、彼らが勝利者であることを見せています。勝利者はプロテスタント教会だけでなく、ローマ・カトリック教会の中にもいます。神は内なる命の回復をカトリック主義の中に起こして、宗教改革が地上での彼の必要に応じることができないこと、プロテスタント主義が彼の証しの標準に符号しないことを見せられました。信仰による義認の回復は大きなことであり、命の認識の回復も大きな事柄でした。

神はルターを用いて「信仰義認」を、カトリックの主を愛する聖徒たちを用いて「内なる命の経験」と回復されました。しかし、主はそれだけでは止まらず、さらに進んだ回復の働きをおこなわれました。これは、主が現在おこなわれている「正常な教会生活」の開始でした。

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・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

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・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
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【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

歴史を遡るなら、主の回復の働きは16世紀においてマルチン・ルターの宗教改革において顕著に見られます。16世紀の宗教改革は、キリスト教の歴史における大きな転換点でした。その中心人物の一人であるマルチン・ルターは、聖書の真理に立ち返ることを訴え、当時の教会のあり方に異議を唱えました。

Ⅰ. 「信仰による義認」の回復

590年に、グレゴリウス大王が法王の座を設立したとき、ローマ・カトリック教会が世界に完全に確立されました。900年以上経って、マルチン・ルターが十六世紀の初めに起こされました。ローマ・カトリック教会が確立された590年からマルチン・ルターが起こされる1517年までおよそ900年の期間、ローマ・カトリック教会は最善を尽くして教会を腐敗させ、堕落させ、変質させました。ローマ・カトリック教会の影響の下で、これは人類歴史における最も暗い期間でした。

マルチン・ルターはローマ・カトリック教会によって引き起こされて、真理を追い求め始めました。ルターは宗教改革における中心人物でしたが、単独ではありませんでした。実は、宗教改革はルターが起こされるはるか前に始まりました。ジョン・フスはルターが登場する前にローマ・カトリック教会を改革しようとしました。フスは主の御言から光を受けて、基本的な真理を語りました。彼の宣べ伝えはローマ・カトリック教会の教えに反していたので、彼は殉教しました。しかしながら、彼が中央ヨーロッパでまいた種は、100年後に実を結びました。

ジョン・フスで始まった教会の回復は、十分強くありませんでした。ルターが起こされてはじめて、教会の回復は十分に強く、完全になりました。ルターと共に立った人たちは、「信仰による義認」に関する真理を回復しました。彼らが回復した最初の事柄は、カトリック主義が神の救いを失ってしまったということでした。

早くから、ルターはローマ・カトリック教会を改革する事を求めていましたが、彼の計画を遂行することはできませんでした。しかしながら、法王の免罪符を売ることに関する乱用を、彼は容認することはできませんでした。法王の代理はあらゆる都市で免罪符を売っており、人々は免罪符を買う限り、彼らの罪は赦されると告げられました。このようにルターによる宗教改革の前、教会は極みまで堕落していたのです。

神の回復の働きは、信仰による義認の基本的な真理をもって始まりました。マルチン・ルターはこの事柄を、多くの光と大きな透明さをもって表現しました。しかしながら、ルターに従ってカトリック主義から出てきた人たちは十分に純粋ではなく、依然としていくらか混乱していました。ルターの時代、ローマ・カトリック教会は多くのヨーロッパ諸国の政府と連合していました。ですから、ルターはローマ・カトリック教会に挑戦したとき、関わった政府にも挑戦していました。しかしながら、いくつかの政府はローマ・カトリック教会と一つ思いではありませんでした。例えば、ドイツ周辺地域の国家はルターの連合しました。一方でルターはローマ・カトリック教会から迫害に苦しみ、カトリック主義を支援した政府によって悩まされましたが、もう一方で、ドイツなどの国によっていくらかの支援と保護を受けました。このような板挟み状態はルターを極めて困難な地位に置きました。

Ⅱ. 国教会

ドイツは国教会を設立し始めました。ルターは国教会が間違っていることを知っていましたが、彼はこの事柄において弱かったのです。なぜなら、彼はドイツの保護を必要としたからです。この後、英国、デンマーク、スウェーデンは相次いで従い、国教会を設立しました。国教会は王、あるいは皇帝をその代表とします。例えば、ドイツの皇帝はドイツの国教会の代表です。人がドイツ人である限り、彼はドイツ国教会のメンバーです。あらゆるドイツ国民は教会税を払わなければなりません。このゆえに、ローマ・カトリックの他に、いわゆる国教会があるのです。

ルターの著作ははっきりと、教会が国家から分離されるべきであることを、彼が知っていたことを示していますが、彼はこの分離を成し遂げることができませんでした。彼は、他の人がそれを行うことができることを望みました。ルターは、カトリック主義から抜け出し、プロテスタントとなりましたが、それは不完全なものでした。なぜなら、それは最初から明確に断ち切ることをしなかったからです。

信仰による義認は良い回復でしたが、ルターの死ぬ前でさえ、プロテスタントの諸教会は政治との連合のゆえに混乱していました。信仰による義認を受け入れた多くのプロテスタント信者は、教理を受け入れただけで真に再生されていませんでした。その結果、彼らの多くのこの世的な事柄をプロテスタント主義へともたらしました。「正常な教会生活」は、ルターの時代に回復されませんでした。主は彼を用いて、信仰による義認に関する真理を回復し、聖書を一般大衆に対して開きました。ルターは彼の命という代価を払って、この真理のために立ちました。ところが、彼は教会に関する真理にきた時、弱かったのです。彼は正常な教会生活を持つという神の真の意図に、わたしたちを連れ戻しませんでした。彼は信仰による義認の真理をもって回復を始めましたが、他に触れる価値があることを何も回復しませんでした。

ですから、啓示録(ヨハネによる黙示録)第3章で主はサルデスに在る教会に言われます、「あなたは生きているというのは名だけで、実は死んでいる。・・・残っているもの、死にかかっているものを堅固にしなさい。わたしは、あなたのわざのどれも、わたしの神の御前で完成されているのを見ていないからで在る。・・・サルデスには、自分の衣を汚さなかった者が数名いる」(啓示録(ヨハネによる黙示録)3:1-2,4)主からサルデスに在る教会へのこの言葉は、プロテスタント主義の状態に関する予言です。

誰もがルターを主の偉大なしもべと認めます。しかし、彼の間違いは教会のビジョンに欠けていたことです。わたしたち人は間違いを犯します。わたしたちの保護は、「教会とは何か?」を十分に認識することです。そして、神はこの回復の働きに続き、カトリックの中にいる主を愛する聖徒たちを用いて新たな回復の働きをおこなわれました。

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【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」