【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

十八世紀において、主はさらなる回復の働きを行われました。この主の回復は正当な教会生活の実行の開始でもありました。

Ⅰ. 組織と宗派を離れることの回復

十六世紀に宗教改革が完全に形成され、十七世紀に内なる命の認識が顕著でした。その100年後の十八世紀の初めにモラビア兄弟団とツィンツェンドルフ伯爵が起こされました。これは主の回復における重要な発展であり、それは政治と地上の組織を離れることを強調しました。

十六世紀の回復は信仰による義認でした。それは教会を政治から連れ出すことに失敗し、政治に巻き込まれさえしました。ツィンツェンドルフ伯爵と一群れの兄弟たちが起こされてはじめて、教会はこの世の政権と地上の組織とのきずなから逃れました。彼らがそのような回復を持つことができたのは、彼らの背景と彼らの長期間の展望のゆえでした。彼らの背景は、300年前にジョン・フスによって植えられた種でした。ジョン・フスの時代、北ヨーロッパの多くの人は純粋な心で主を愛して、彼らの時代の堕落した宗教を受け入れることができませんでした。彼らは組織化された教会に反対し、凶暴な迫害によって彼らの諸国から追い出されました。これらの信者たちはボヘミアに移住しました。

ボヘミアとモラビアに散らばっていた兄弟たちは避難するためにドイツに逃げました。十八世紀に、ドイツのザクセンにツィンツェンドルフという名の信者がいました。ツィンツェンドルフは伯爵であり、大きな私有地を所有しており、裕福でした。ツィンツェンドルフは主を愛していたので、迫害された兄弟たちを自分の私有地に迎え入れ、彼らを共に集めて、自由に神に仕えさせました。避難した大部分の信者たちはモラビア出身であったので、人々は彼らをモラビア兄弟団と呼びました。

ボヘミアはチェコ共和国の西半分にあり、オーストリアの北部にあって、第二次世界大戦の時、ヒトラーと英国が戦った場所です。モラビアの兄弟たちは主を愛したために迫害され、ボヘミアに移住しました。主を愛したツィンツェンドルフ伯爵はボヘミアに住んでおり、これらの兄弟たちを受け入れました。モラビアからの兄弟たちの地に、独立グループからの信者たちもそこに行きました。これらの信者たちは異なる場所の出身であったので、彼らはさまざまな教理に対して異なる見方を持っていました。これらの兄弟たちは、彼らの教理上の違いに関して異議を唱え始めました。ある日ツィンツェンドルフ伯爵は、協議会を招集して、彼らに自分の教理上の異なる違いを下ろすように説得しました。彼らは、彼らの間の一を保ち、教理における、また彼らの宗教的な背景における違いをわきに置くという協定に署名しました。ツィンツェンドルフは、主から彼らに与えられた知恵にしたがって、彼は彼らをその背景の下に置き、一の中で集会し始めるように導きました。涙を伴う多くの祈りを通して、また主の愛と知恵に依り頼むことによって、彼の私有地に避難を求めた信者たちが彼らの異なる意見を下ろし、教会の過去の教えを回復し、互いに愛し合い、一の中にとどまるように励ましました。

その後、彼らは主の食卓を持っていた時、聖霊の注ぎ出しを経験しました。それまでの教会歴史において、彼らの間には最も強いリバイバルがありました。そして彼らは、地上で最も優勢なクリスチャンの群れの一つとなりました。彼らの集会の状態は教会生活の完全な回復と考えられることはできませんが、彼らは少なくとも教会生活の70%を持っていました。ルターの宗教改革のおよそ200年後、正常な教会生活がついに始まりました。彼らは自分たちの地を離れてボヘミアに移住したとき、自然にこの世の政治組織、また召会の堕落した組織との関係を断ち切りました。

Ⅱ. 福音を宣べ伝えることの回復

歴史家たちは、ツィンツェンドルフが教会の中でいかなる特別な称号も持ったことを記録していません。彼は聖職者ではありませんでした。彼はモラビア兄弟団の間で単に兄弟でした。これらの兄弟たちはこの世と宗教の組織を離れました。50年で彼らは伝道団を派遣して外国の地で福音を宣べ伝え、それは前の二世紀に全世界のすべての伝道団が派遣したものより多かったのです。彼らはこの世と宗教の組織を離れたので、聖霊は彼らの間で働くことができました。彼らは地に出て行って福音の証しをすべての人にもたらすことを回復しました。さらに、モラビア兄弟団には多くの特別な特徴がありました。それは、互いに愛し合うこと、また一つ思いの状態を持つことなどです。ジョン・ウェスレーは彼らによって成就されました。

Ⅲ. 聖なる生活の回復

次の回復は聖なる生活の回復でした。この回復は、ウェスレー家と彼らに従う者たちによってもたらされました。ウェスレー家の兄弟たち、ジョンとチャールズは、英国のオックスフォード大学の優秀な学生でした。ジョン・ウェスレーは説教を宣べ伝えることですばらしく、チャールス・ウェスレーは詩歌を書くことですばらしかったのです。彼ら二人は、人が聖なる生活をするべきであることを宣べ伝えました。ですから、彼らはどのように聖なる生活をするかについて、人々が従うべき多くの規則を作りました。彼らの規則のいくつかは真理にしたがっていましたが、彼らはまたいくらか間違いました。

神はジョン・ウェスレーを起こして英国で回復の働きを行わせましたが、彼はモラビアの人たちによって大いに影響され、教えの事柄で彼らから多くの助けを受けました。ですから、ジョン・ウェスレーによって宣べ伝えられた言葉は、おもにモラビア兄弟団から来ました。

その後、アンドリュー・マーレーの教えはおもにウィリアム・ローの働きに基づいていました。ウィリアム・ローは奥義派の人たちに大きな変化をもたらしました。ウィリアム・ローの時代、奥義派の人たちの教えは拡大することができませんでしたが、彼の変化の後、彼らの教えはさらに実際的になりました。アンドリュー・マーレーの教えの多くはウィリアム・ローの著作から派生しており、それゆえに奥義派からでした。ジョン・ウェスレーは奥義派の影響から逃れることはできませんでした。ですから、聖についての彼の教理の多くの面が、奥義的な観点を含んでいます。この影響が、真理の認識が十分に正確ではありませんでした。

しかし、ウェスレーの回復はとても強力でした。それは人々を召して罪に打ち勝つ生活をさせ、多くの人に聖なる生活を追い求めさせる回復でした。ウェスレー派で最も有名な人はジョージ・ホイットフィールドであり、彼はとても有能でした。ウェスレー家とホイットフィールドは、未信者に福音を宣べ伝えませんでした。そうではなく、彼らはクリスチャンに福音を宣べ伝えました。彼らは、もし人が再生されていないなら、聖別されないと言いました。これは人々に大きな転換をさせ、彼らの生活に変化を持たせました。人々は乱雑な生活をしていましたが、その当時、彼らの生活に変化がありました。主要なことは、この当時に多くの人が転換したということです。この回復は、幕屋の周りの白い亜麻布のあげばりの境界線が、さらに明確に引かれるようにしました。

そして、主の回復の働きは十九世紀に突入します。この時期の主の回復の働きは黄金期と呼ばれています。ジョン・ネルソン・ダービーを含むブラザレンは、今日のわたしたちキリスト教神学の大きな助けとなっています。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

17世紀において、主は内なる命の経験の回復をもたらされました。この回復はプロテスタント運動の中にではなく、ローマ・カトリック教会の中にいる主を愛する聖徒によってもたらされました。

Ⅰ. 命の認識の回復

教会歴史や霊的な伝記を注意深く研究するなら、マルチン・ルターは形式上、教会をカトリック主義から連れ出しましたが、ローマ・カトリック教会には、なおも多くの霊的な人々がいたことを見ます。トマス・ア・ケンピスはそのような人でした。彼はルター以前の時代にいました。ガイオン夫人は十七世紀の人でした。ガイオン夫人は奥義派の人たちに近かったのですが、奥義派の路線は彼女から始まったのではありません。ガイオン夫人の前にさえ、多くの人は神の御前で生きていました。これらの人は少数ではありませんでした。ローマ・カトリック教会は彼らを迫害しましたが、彼らはカトリック主義にとどまりました。

いくつかの事柄が、ローマ・カトリック教会の領域の人たちによって回復されました。プロテスタント主義は信仰による義認を回復しましたが、ローマ・カトリック教会にいる霊的な人たちは、内なる命の認識を回復しました。十六世紀のルターと十七世紀のガイオン夫人との間の100年以上に、他の明確な回復はなく、ただ一般的な回復だけでした。第一の回復は信仰による義認であり、第二の回復は内なる命の認識でした。ガイオン夫人は内なる命の認識を回復した人たちの代表です。彼らは神との内なる交わりと神の御前に生きることに注意を払いました。歴史家たちは彼らを奥義派と呼んでいます。彼らの間で、フェネロン神父はとても有名です。他の多くの人がいましたが、彼らは隠されていたので彼らについての記録はほとんどありません。ガイオン夫人、フェネロン神父、ブラザー・ローレンスなど、これらの聖徒たちは、内なる命としてのキリストに関していくらか知りましたが、彼らには実行上の教会生活がありませんでした。彼らは依然としてローマ・カトリックの範囲の中にいました。依然としてマリア像に行きました。彼女はプロテスタント主義の死に対する反応として神によって用いられたにもかかわらず、教会について明確ではなく、カトリック主義の中の偶像についてさえ明確ではありませんでした。

Ⅱ. 宗派(私立教会)とフリーグループ

この時点で主は真理を愛する人々の群れを興されました。これらの信者たちは聖書の中にある多くの真理を見いだし、進んで立ち上がってこれらの真理を実行しました。彼らはローマ・カトリックによって統治されたり、国教会によって管理されたりするのを拒絶しました。こうして、十七世紀と十八世紀に多くのフリーグループが、バプテスト教会、長老教会、メソジスト教会などのいわゆる単立教会や私立教会を形成しました。これらのグループは今日、異なる宗派です。

ある人たちは、正しいバプテスマは水に浸すことによることを見ました。自然に、これがバプテスト教会の始まりでした。バプテスト派は、多くの私立教会のうちの一つです。それは、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、国教会に加えて、いわゆる教会の第四の部類と考えられるでしょう。これらの私立教会は、バプテスト教会、長老教会、メソジスト教会などを含みます。今日、多くの私立教会があります。いわゆる教会の第五の部類は、フリーグループです。これらのフリーグループは、すべての聖書教会、単立教会を含みます。聖書教会、単立教会は、ローマ・カトリック、ギリシャ正教会、国教会、どの私立宗派にも属しません。聖書教会、単立教会の中にいる人たちは、彼らのすべての実行を聖書に基づいて持つように努めます。これらの聖書教会、単立教会に加えて、宗派の外で集会する他の多くのフリーグループがあります。

一世紀から始まって、教会は徐々に堕落し、真理から離れました。十七世紀と十八世紀までに、五つの大きな組織が生み出されました。それは①ローマ・カトリック、②国教会、③ギリシャ正教会、④私的に設立された私立教会(宗派)、⑤フリーグループです。しかしながら、あらゆる世紀には純粋な心で主を愛し、真理を愛する少数の人々がいました。これらの信者たちは、聖書の中で彼らが見た真理を実行しました。彼らのキリストについての理解は正確であり、彼らは文字と教理以上に、聖霊を重視しました。これらの信者たちは命を重視し、聖書的な方法にしたがって人々を共に集らせ、自由に礼拝させました。

Ⅲ. 階級制度と聖職者

使徒たちがまだ生きていた時、彼らは「だれでもあなたがたの間で偉大でありたい者は、あなたがたのしもべとなり」(マタイ20:26)という主の言葉を守りました。ですから、使徒たちが生きていた時、他の人たちを管理する偉大な人はいませんでした。パウロは聖霊の導きに従うことによって、各地方で長老を立てましたが、長老は信者たちの上に権力を振るう偉大な人たちではありません(Ⅰペテロ5:1-3)。「長老」という言葉は、命において円熟している信者たちを指します。長老たちはより経験があり、より洞察力があり、比較的思慮深いのです。彼らは年長である必要はありません。パウロはまた彼らを監督と呼びました(使徒20:28、Ⅰテモテ3:1-2)。原文の「監督」という言葉は、上から事柄を監督する人を指しています。長老は、より円熟している人を示していますが、監督は長老の機能、すなわち長老が行う事を示しています。「長老」と「監督」は両方とも同じ人を指しています。

使徒行伝第20章におけるパウロの言葉は、エペソに在る教会の監督が教会の長老であったことをはっきりと示しています(使徒20:17,28)。二世紀において、使徒たちが亡くなった後、イグナティウスという聖書教師が立ち上がりました。彼は主を愛し、最終的に主のために殉教しました。しかしながら、彼は彼の文書の中で監督と長老を二つのグループの人々に分離するという大きな間違いを犯しました。彼はまた監督に特別な権威を与えました。彼が書いたのは、長老が一つの地方におり、いくつかの地方の教会が共にグループとなって、監督の管理の下にある教区となるということでした。こういうわけで、監督は長老の上になりました。この一つの間違いは後に階級制度を生み出しました。この教えに基づいて、監督は長老の上におり、司教は監督の上におり、大司教は司教の上におり、ローマの枢機卿は大司教の上におり、教皇は枢機卿の間から選ばれました。監督のこれらの階級が聖職者と呼ばれます。歴史を通して、純粋な心で主を愛する者たちはローマ・カトリックの聖職者を拒絶してきました。しかしながら、最終的に国教会も聖職者制度を発展させ、いわゆる私立教会も牧師制度を発展させました。これらはみな中間階級です。これは啓示録(ヨハネによる黙示録)で記されている「ニコライの者」であり(啓(黙示録)1:6、2:15)、主が憎んでおられる者たちです。

Ⅳ. 勝利者

ルターは教会を改革しましたが、神は命の認識の回復をローマ・カトリック教会の内側に残されたかのようです。これはプロテスタント主義に対する神の反応でした。何世紀にもわたって、神の働きは人の行動に反応してきました。宗教改革はカトリック主義に対する反応でした。しかしながら、カトリック主義の内側にある命の認識の回復は、プロテスタント主義の律法主義と形式主義に対する反応でした。今日でさえ、多くのカトリック教徒は神の御前で生きています。彼らはプロテスタント主義をさげすんでいます。なぜなら、それは外側の形式を強調しすぎて、内なる命を無視しているからです。

啓示録(ヨハネによる黙示録)第2章18節から29節でテアテラに在る教会に対する手紙は、テアテラに在る教会の内側に「残りの者」と呼ばれる一群れの人たちがいて、彼らが勝利者であることを見せています。勝利者はプロテスタント教会だけでなく、ローマ・カトリック教会の中にもいます。神は内なる命の回復をカトリック主義の中に起こして、宗教改革が地上での彼の必要に応じることができないこと、プロテスタント主義が彼の証しの標準に符号しないことを見せられました。信仰による義認の回復は大きなことであり、命の認識の回復も大きな事柄でした。

神はルターを用いて「信仰義認」を、カトリックの主を愛する聖徒たちを用いて「内なる命の経験」と回復されました。しかし、主はそれだけでは止まらず、さらに進んだ回復の働きをおこなわれました。これは、主が現在おこなわれている「正常な教会生活」の開始でした。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

歴史を遡るなら、主の回復の働きは16世紀においてマルチン・ルターの宗教改革において顕著に見られます。16世紀の宗教改革は、キリスト教の歴史における大きな転換点でした。その中心人物の一人であるマルチン・ルターは、聖書の真理に立ち返ることを訴え、当時の教会のあり方に異議を唱えました。

Ⅰ. 「信仰による義認」の回復

590年に、グレゴリウス大王が法王の座を設立したとき、ローマ・カトリック教会が世界に完全に確立されました。900年以上経って、マルチン・ルターが十六世紀の初めに起こされました。ローマ・カトリック教会が確立された590年からマルチン・ルターが起こされる1517年までおよそ900年の期間、ローマ・カトリック教会は最善を尽くして教会を腐敗させ、堕落させ、変質させました。ローマ・カトリック教会の影響の下で、これは人類歴史における最も暗い期間でした。

マルチン・ルターはローマ・カトリック教会によって引き起こされて、真理を追い求め始めました。ルターは宗教改革における中心人物でしたが、単独ではありませんでした。実は、宗教改革はルターが起こされるはるか前に始まりました。ジョン・フスはルターが登場する前にローマ・カトリック教会を改革しようとしました。フスは主の御言から光を受けて、基本的な真理を語りました。彼の宣べ伝えはローマ・カトリック教会の教えに反していたので、彼は殉教しました。しかしながら、彼が中央ヨーロッパでまいた種は、100年後に実を結びました。

ジョン・フスで始まった教会の回復は、十分強くありませんでした。ルターが起こされてはじめて、教会の回復は十分に強く、完全になりました。ルターと共に立った人たちは、「信仰による義認」に関する真理を回復しました。彼らが回復した最初の事柄は、カトリック主義が神の救いを失ってしまったということでした。

早くから、ルターはローマ・カトリック教会を改革する事を求めていましたが、彼の計画を遂行することはできませんでした。しかしながら、法王の免罪符を売ることに関する乱用を、彼は容認することはできませんでした。法王の代理はあらゆる都市で免罪符を売っており、人々は免罪符を買う限り、彼らの罪は赦されると告げられました。このようにルターによる宗教改革の前、教会は極みまで堕落していたのです。

神の回復の働きは、信仰による義認の基本的な真理をもって始まりました。マルチン・ルターはこの事柄を、多くの光と大きな透明さをもって表現しました。しかしながら、ルターに従ってカトリック主義から出てきた人たちは十分に純粋ではなく、依然としていくらか混乱していました。ルターの時代、ローマ・カトリック教会は多くのヨーロッパ諸国の政府と連合していました。ですから、ルターはローマ・カトリック教会に挑戦したとき、関わった政府にも挑戦していました。しかしながら、いくつかの政府はローマ・カトリック教会と一つ思いではありませんでした。例えば、ドイツ周辺地域の国家はルターの連合しました。一方でルターはローマ・カトリック教会から迫害に苦しみ、カトリック主義を支援した政府によって悩まされましたが、もう一方で、ドイツなどの国によっていくらかの支援と保護を受けました。このような板挟み状態はルターを極めて困難な地位に置きました。

Ⅱ. 国教会

ドイツは国教会を設立し始めました。ルターは国教会が間違っていることを知っていましたが、彼はこの事柄において弱かったのです。なぜなら、彼はドイツの保護を必要としたからです。この後、英国、デンマーク、スウェーデンは相次いで従い、国教会を設立しました。国教会は王、あるいは皇帝をその代表とします。例えば、ドイツの皇帝はドイツの国教会の代表です。人がドイツ人である限り、彼はドイツ国教会のメンバーです。あらゆるドイツ国民は教会税を払わなければなりません。このゆえに、ローマ・カトリックの他に、いわゆる国教会があるのです。

ルターの著作ははっきりと、教会が国家から分離されるべきであることを、彼が知っていたことを示していますが、彼はこの分離を成し遂げることができませんでした。彼は、他の人がそれを行うことができることを望みました。ルターは、カトリック主義から抜け出し、プロテスタントとなりましたが、それは不完全なものでした。なぜなら、それは最初から明確に断ち切ることをしなかったからです。

信仰による義認は良い回復でしたが、ルターの死ぬ前でさえ、プロテスタントの諸教会は政治との連合のゆえに混乱していました。信仰による義認を受け入れた多くのプロテスタント信者は、教理を受け入れただけで真に再生されていませんでした。その結果、彼らの多くのこの世的な事柄をプロテスタント主義へともたらしました。「正常な教会生活」は、ルターの時代に回復されませんでした。主は彼を用いて、信仰による義認に関する真理を回復し、聖書を一般大衆に対して開きました。ルターは彼の命という代価を払って、この真理のために立ちました。ところが、彼は教会に関する真理にきた時、弱かったのです。彼は正常な教会生活を持つという神の真の意図に、わたしたちを連れ戻しませんでした。彼は信仰による義認の真理をもって回復を始めましたが、他に触れる価値があることを何も回復しませんでした。

ですから、啓示録(ヨハネによる黙示録)第3章で主はサルデスに在る教会に言われます、「あなたは生きているというのは名だけで、実は死んでいる。・・・残っているもの、死にかかっているものを堅固にしなさい。わたしは、あなたのわざのどれも、わたしの神の御前で完成されているのを見ていないからで在る。・・・サルデスには、自分の衣を汚さなかった者が数名いる」(啓示録(ヨハネによる黙示録)3:1-2,4)主からサルデスに在る教会へのこの言葉は、プロテスタント主義の状態に関する予言です。

誰もがルターを主の偉大なしもべと認めます。しかし、彼の間違いは教会のビジョンに欠けていたことです。わたしたち人は間違いを犯します。わたしたちの保護は、「教会とは何か?」を十分に認識することです。そして、神はこの回復の働きに続き、カトリックの中にいる主を愛する聖徒たちを用いて新たな回復の働きをおこなわれました。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

一世紀末から徐々に始まった教会の堕落は、五世紀から十五世紀にかけて、ローマ・カトリックの出現において頂点に達しました。この教会が堕落した中世の時代を「暗黒時代」と呼びます。

Ⅰ. 中世のローマ・カトリックと暗黒時代

一世紀末から徐々に始まった教会の堕落は、五世紀から十五世紀にかけて、ローマ・カトリックの出現において頂点に達しました。ローマ帝国は初めの三世紀にわたって教会を迫害しました。四世紀にローマ帝国はその態度を変えて、もはや教会を迫害するのではなく、それを歓迎し、それに特別な地位を与えました。これはコンスタンティヌスがローマの皇帝になった後に始まりました。コンスタンティヌス大帝が彼の帝国の権力を用いて二ケア会議を開き、二ケア信条を制定した時、教会は政治権力と結び付きました。これがローマ・カトリックの形成の始まりでした。彼は死の床にいつまでバプテスマされませんでしたが、キリスト教を歓迎しました。彼は多くの方法を用いて、民衆が異教の宗教を拒絶し、キリスト教を受け入れるように奨励しました。彼がこれを行ったのは神のためではなく、自分自身の政治権力を固めるためでした。

コンスタンティヌスの統治の期間、キリスト教はまだ公式の国教ではありませんでした。キリスト教が公式の国教として宣言されたのは、370年にテオドシウスの統治になってからでした。この時、すべてのローマ市民はクリスチャンになるように要求されました。ローマ帝国がキリスト教をその公式の宗教として受け入れ、教会が政治と連合した後、ローマ帝国の市民は彼らの習慣を教会の中へと持ち込みました。彼らが拝んだ女神アルテミスは、「聖なる母マリア」となりました。太陽を拝む祭日はキリストの誕生日と呼ばれ、クリスマスとなりました。

五世紀にローマの司教であるレオ一世は自分自身が教会の最高権威であると考え、最初の教皇となりました。六世紀までに教皇制度が確立され、それは西洋における諸教会を統一しました。こうして、ローマ・カトリック教会が正式に設立され、教会の堕落がその頂点に達しました。

1854年に法王ピウス九世は、マリアには罪がなかったと宣言する大勅書を発布しました。これは無原罪懐胎の教理です。この偽りの教えによれば、マリアは聖霊から身ごもったとき、原罪から逃れたのです。法王がこの宣言をした後、ローマ・カトリック全体が、マリアには罪がなかったことに同意しなければなりませんでした。法王はまた、使徒パウロを礼拝することを正式に確証しました。いわゆるカトリックの聖徒たちはみな、法王によって聖人と認められました。

ローマ・カトリックは、六世紀から十五世紀あるいは十六世紀まで、十世紀にわたって繁栄しました。ローマ・カトリックは一般の信者に聖書を読むことを禁じました。結果として、十世紀の期間にわたって光がなく、全世界は霊的暗闇に陥りました。歴史においてこの期間は中世の期間の暗黒時代と呼ばれています。

聖書によれば、神はこの時代に介入して教会を汚す事柄から対処することはされませんでした。例えば、教会の堕落、変質に関して、もし神が介入してその変質した状態を矯正されるなら、わたしたちはそれは良いことであると考えます。しかしながら、神は介入しないで、その変質を継続させ、さらに悪くなるようにさえしました。神はそれを起こるようにさえされます。

いずれにせよ、教会とローマ帝国との連合は、教会の行政と組織の変質を完成しました。それはペンテコステの日(教会が誕生した日、紀元34年頃)から約280年であり、この時から約1300年間をかけて教会は完全に変質しました。

Ⅱ. 教会の回復の兆し

教会が変質し、ローマ・カトリック教会になった後、ある意味でそれはこれ以上、変質し、堕落することができなくなりました。ローマ・カトリック教会は、極みまで堕落した後の教会の最高の例証です。ですから教会はもはや、さらに変質したり堕落したりすることはあり得ませんでした。この後、神は堕落しきった教会に介入され、マルチン・ルターを用いて回復の働きを行われました。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

真の教会歴史を知るためには、一世紀まで歴史を遡らなければなりません。実は、神の回復の働きは一世紀あたりに始まり、それは教会が荒廃した時でした。

Ⅰ. 主の回復の開始

まず聖書の歴史を振り返りましょう。聖書は一世紀の終わりに完成しました。聖書を書いた最初の人はモーセでした。彼は主イエスが生まれるおよそ1500年前に、すなわち3500年前に聖書の最初の五冊の書を書きました。モーセの後、さまざまな場所に住み、さまざまな時代に生きていた他の人々が、続けて聖書を書きました。主イエスの誕生のおよそ400年前に、あるユダヤ人の聖書学者たちがモーセ五書と、神によって霊感を受けた人によって書かれた他の霊的な巻物を集めました。この材料が調べられた後、三十九巻から神の聖なる言として承認されました。これは旧約の各書です。

旧約の最後の書はマラキ書です。マラキ書の執筆から主イエスの誕生までおよそ400年の期間、それ以上、神聖な言葉は書かれませんでした。およそ2000年前、主イエスが生まれ、33年半地上で生活し、死んで、葬られ、復活し、昇天しました。聖霊が下ってきて、教会が生まれました。これが使徒行伝第2章に記されているペンテコステです。この後、人々は新約を書きました。初めに、多くの福音書がありましたが、それは調べられ、査定され、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書だけが承認されました。福音書に続いて、使徒行伝があります。それはルカによって書かれました。使徒行伝の後、パウロの書簡があり、それはローマ人への手紙からヘブル人への手紙まで全部で十四巻あります。パウロは書簡をおおよそ54年から書き始め、およそ67年に完成しました。パウロの書簡に続いて、ヤコブの手紙、ペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙、ヨハネによって書かれた啓示録(ヨハネによる黙示録)があります。これらが新約の完全な文書です。

しかしながら、新約聖書は一世紀に調べられ、査定されたのではありません。それは一世紀の後、あらゆる場所の教会によって徐々に承認されてきました。一世紀の終わりの時、七巻の書、すなわち、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの第二の手紙、ヨハネの第二、第三の手紙、ユダの手紙、啓示録(ヨハネによる黙示録)は承認されていませんでした。キリスト教の教師たちが北アフリカのカルタゴでの会議のために集まった397年になってはじめて、これらの七巻の書は新約聖書の一部として承認され、新約には二十七巻あるということが結論づけられました。

A. パウロの完成する務め

一世紀末に、新約聖書はすべて承認されていたわけではありませんでしたが、神の啓示は完成しました。新約聖書の中心的な書物はパウロの書簡です。コロサイ人への手紙第1章25節でパウロは、彼の務めは「神の言葉を完成すること」であったと言います。これは、パウロが完成された神の言葉を書いたことを意味します。この完成する言葉の強調はキリストです。

パウロの書簡は、キリスト、その霊、命、教会について語っており、またキリストの死と復活について語っています。わたしたちはキリストの死と復活をおもに個人的な事柄として理解していますが、パウロがキリストの死と復活に関して語ることは、団体的な事柄、すなわち教会を強調します。ですから、パウロの神の言葉を完成する務めは、キリストが死と復活を通して、命を与える霊と成ってわたしたちの命となり、教会を生み出すことに関してです。これが、パウロが明らかにしていることであり、神の啓示です。

B. ヨハネの繕う務め

パウロの書簡が書かれた後、彼の死の前にさえ、完成された神の言葉は損害を受け、台無しにされました。このことは教会の堕落につながりました。結果として、およそ67年にパウロは、テモテへの第二の手紙を教会の堕落の予防注射として書いて、堕落の病原菌に対して戦いました。その後しばらくして、パウロは殉教しました。90年までにパウロの啓示は完全に破壊され、グノーシス主義などの多くの異端的な教えが教会の中へと入りました。

パウロの啓示と教会に対する損害のゆえに、主はヨハネを用いて繕う務めを行いました。ヨハネの務めは繕う務めです。繕うとは、壊れたものや傷ついたものを修理したり補修したりすることです。ヨハネは網を繕っている時に主イエスに召されました(マタイ4:21)。この繕う務めのために、ヨハネによる福音書、ヨハネの第一、第二、第三の手紙、啓示録が書かれました。ヨハネによって繕われた後、啓示のいくつかの点は、本来よりも強くなりました。厳格に言って、ヨハネの繕うことは回復の開始です。

Ⅱ. キリストのパースンと信条の起源に関する議論

教会歴史によれば、一世紀の終わりから始まった、キリスト論と関係のある大きな論争がありました。この論争は、どのようにしてキリストが神と人の両方であり得たかに関してでした。ある人たちは、キリストが神でなかったと言いました。他の人たちは、キリストが肉体において来れられたのではなく、人ではなかったと言いました。ですから、ヨハネは彼の福音書を書いて、キリストが神でないという異端に反論したのです。ヨハネによる福音書の最初に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。このことはイエスが神であることを綿密に見せています。ヨハネはまた彼の第一の手紙を書いて、キリストが肉体において来られたのではないという異端に反論しました。325年に、ローマの皇帝であるコンスタンティヌス大帝は、キリストのパースンに関する論争と関わりのあるすべてのキリスト教の教師を二ケアでの会議に集めました。今日に至るまでカトリックとプロテスタントは二ケア信条を堅固に保持しており、それを信仰の基本的な信条として尊重しています。

六世紀には、クリスチャンの中でキリストのパースンに関する異なる七つの学派が存在しました。第一の学派は、キリストには神性があるが、人性はない、すなわち、彼は神であって、人ではないというものです。第二の学派は、キリストには人性だけがあり、神性はない、すなわち、彼は人であるだけであり、神ではないというものです。第三の学派は、キリストには神性があるが、彼の神性は不完全であるというものです。第四の学派は、キリストには人性はあるが、彼の人性は不完全である、すなわち彼には人の体と魂があるが、人の霊はないというものです。第五の学派は、一人の人が二つの性質を所有することはできないので、キリストの神性と人性は区別があり、分離されているというものです。第六の学派は、キリストの神性と人性が結合して、第三の性質を生み出したというものです。第七の学派は正統で、正確であり、聖書的です。この学派は、キリストには神性と人性の両方があり、両方の性質が完全で、ミングリングされている(混ざり合わされている)が、第三の性質を生み出さないというものです。これは、キリストが真の神であり、また真の人であることを意味します。彼は神であり人であり、人であり神です。彼には神聖な性質と人の性質の両方がありますが、彼は依然としてひとりのパースンです。これが聖書におけるキリストのパースンの啓示です。

キリストのパースンに関する七つの学派

学派学派の主張内容の詳細
第1の学派キリストには神性があるが、人性はないキリストは神であって、人ではない。
第2の学派キリストには人性だけがあり、神性はないキリストは人であって、神ではない。
第3の学派キリストには神性があるが、彼の神性は不完全である神性があるが、それは完全ではない。
第4の学派キリストには人性があるが、彼の人性は不完全であるキリストには人の体と魂はあるが、人の霊がない。
第5の学派キリストの神性と人性は区別があり、分離されている一人の人が二つの性質を所有することはできないと主張。
第6の学派キリストの神性と人性が結合して第三の性質を生み出した神性と人性が融合し、全く新しい性質が誕生したと考える。
第7の学派キリストには神性と人性が完全にミングリングされている(正統的立場)キリストは真の神であり、真の人。神性と人性は完全にミングリングされているが、第三の性質は生まれない。

このように、およそ2000年前、主イエスが生まれ、33年半地上で生活し、死んで、葬られ、復活し、昇天し、聖霊が下ってきて、教会が生まれました。この後、100年足らずで教会の中にグノーシス主義などの異なる教えが忍び込み、教会は堕落しました。また六世紀には、キリストのパースンに関する七つの学派が存在するほどに、真理に関しても混乱していました。これが教会歴史の出発点であり、このために神は回復の働きを必要とされました。

次の記事へ

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」